板祐生

本名 板愈良(いたまさよし)、板祐生(いたゆうせい)と号し、昭和10年3月に弘前の木村弦三が〈陸奥の小芥子〉を発刊したときにそのこけしの表紙絵、挿絵を孔版画で作成した。表紙は佐藤伊太郎大小二本の、扉絵は川越謙作、図版三枚に盛秀太郎、斎藤幸兵衛、山谷多兵衛、川越謙作、小松五平、長谷川辰雄、三上文蔵七名の作者作品が紹介されている。このうち、幸兵衛、多兵衛、謙作、伊太郎、辰雄,文蔵はこの〈陸奥の小芥子〉で初めて世に知られることになった。

〈陸奥の小芥子〉と佐藤伊太郎のこけし

板愈良は明治22年9月24日、鳥取県西伯郡東(現南部町)に生まれた。学業優秀であったので、高等小学校卒業と同時に14歳で代用教員となり、明治24年19歳で検定試験により本科正教員の免許を取得した。
明治末から絵はがき、古銭などの蒐集を始めていたたが、大正6年29歳の時に関西中心の同好グループ「珍道楽」に加わって本格的な蒐集活動に入り、大正8年三田平凡寺の主宰していた趣味人の會「我楽他宗」に参加して全国レベルの蒐集家の仲間入りをした。三田平凡寺は東京芝の富裕な材木商「三田源」の息子で本名は林蔵、同好の士を集めて「我楽他宗」を始め、会員はそれぞれ山号寺名をつけて呼び合い、珍玩奇玩を集めては銘々披露し合ったり、様々な趣向をこらした集まりを開いたりして楽しんでいた。三田平凡寺は「第一番趣味山平凡寺」、板祐生は「第二十番十徳山龍駒寺」と号した。

板祐生

しかし、板愈良は経済的にゆとりのない地方の教員だったので、東京の富裕な趣味人たちと対等に付き合うのは苦しかった。そこで工夫して、貰ったものがあるとそれをガリ版で絵柄に作り、板祐生という名前で私家本にまとめ、それをお礼に代えるということを試みた。その結果、祐生作品は東京の趣味人たちに広く認められるようになった。
板愈良は学校教員だった関係でガリ版印刷、即ち謄写版を常々よく使っていたのであろう、これを多用し、さらに孔版画に興味を持って精力的に創作を続け、独自の領域を切り開いていった。孔版画はいわゆる合羽摺りで、紅型など型染めの手法に近い。謄写版の油紙を鋭利な小刀でその色の部分だけ切り抜いてゆくのである。色毎に別の型を必要とするので二十色なら二十枚の油紙を切り抜いた型を作る必要がある。紙の上にその油紙の型を載せて、色インクを着けたローラーで着色していく手法である。孔版画による造本は〈陸奥の小芥子〉以外にも、「龍駒珍聞」33号、「富士乃屋草紙」39冊、「髫髪(うない)歓賞」6冊、「青駒」5冊等多くを手掛けていた。
板愈良はまたこけしの蒐集家としても知られている。こけし蒐集界では本名の板愈良より祐生の名の方がポピュラーである。板祐生のコレクションでは〈陸奥の小芥子〉の作画のためにモデルとして木村弦三から送られてきたものに見るべきものが多いが、その他にも古い玩具仲間から手に入ったと思われるもの、例えば下掲写真の伝浅之助など貴重なものがいくつか含まれている。


伝佐久間浅之助〔18.2cm(明治末期)(板裕生旧蔵)〕

板祐生はその後、何らかの事情があって三田平凡寺の「我楽他宗」を去る。しかし、裕生の作品は料治朝鳴の「版芸術」にも紹介され、裕生自身も昭和12年には武井武雄の主宰する年賀状交換会「榛の會」に加わって十傑の一人に選ばれたりした。趣味人からの依頼で蔵書票や所蔵票、私家用葉書を作ったりして孔版画家として趣味界に知られるようになり、その交際範囲は広かった。
昭和31年2月5日に病没。行年68歳であった。

平成12年2月には、銀座の伊東屋7階ギャラリーで「孔版画に生きた板祐生の世界」という特別展が開かれ、こけしのコレクションも陳列された。また展覧会場には板祐生の多くの孔版画作品と共にその型紙やローラー、色インクのチューブなども展示されていた。


〈陸奥の小芥子〉とそのモデルになったこけしたち
「孔版画に生きた板祐生の世界」の展示 平成12年2月

板祐生の作品やコレクション、さらに関連資料は鳥取県西伯郡南部町の「祐生出会いの館」(平成7年に開設)に大切に保管展示されている。

〔参考〕

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