我楽他宗

第1次世界大戦後から昭和期戦前ころにかけて存続した収集趣味家たちの交遊会名。寺号をそれぞれ雅号とする好事家の集団で提唱者は三田林蔵。三田は明治42年ころ自家を「趣味山平凡寺」として「我楽多宗」と称したが、大正8年末寺十ヶ所の会員を集めてこれをネットワーク化し、当初の「我楽多宗」からやがて「我楽他宗」の表記を使うようになった。


三田平凡寺
平凡寺は好奇心旺盛でローラースケートが日本に入ってくると真っ先に試してみた。

絵馬、土俗玩具。干支玩具その他の収集趣味の同好者が参加、翌年には斎藤昌三・宮崎線外・田中緑紅・稲垣豆人、さらにアメリカの民俗学者フレデリック・スタール(Frederick Starr)なども会員となり二十五寺に増加、やがて西国三十三ヵ所の札所にちなんで会員数を三十三に増やした。会費33銭の月例会を開き、各種趣味品の交換などを行なった。会員の入れ替わりはかなりあったようであり、例えば斎藤昌三が第五番由来山相対寺として入っていたこともあった。その斎藤昌三の〈変態蒐癖志〉によると「我楽他宗」の会員は三十三どころではなく人気が高かったようで「否 宗員は六百数十人 他に山寺号を独自につけたもの加へると千人以上模倣者あり」と書かれている。
参考に大正13年6月時点における会員リストは以下の通りであった。

山号 氏名 蒐集対象
第一番 趣味山平凡寺 三田林蔵 何でも
第二番 北越山文珠寺 松平康荘 小形木魚
第三番 木兎山凡能寺 広瀬理一 木兎
第四番 与太山玩狐寺 有阪与太郎
第五番 玩雪山狗仏寺 高橋敬吉
第六番 平凡山観陶寺 藤浪銀蔵
第七番 笑門山福来寺 杉山由之助 大黒
第八番 章魚山珍斎寺 本間栄次郎
第九番 鳩々山癪損寺 松本松石
第一〇番 石流山葉沈寺 伊藤佳都 達磨
第一一番 航賓山船舶寺 三田村富次郎
第一二番 昇陽山鴉歓寺 陽貞吉
第一三番 鴛龍山獅子梵刹 ヂシシング 鴛・竜・獅子
第一四番 久護山卜鯰寺 小西石蔵
第一五番 九美山女弄寺 河村目呂二
第一六番 万法山帰一寺 山内繁雄 遺伝学習資料
第一七番 黄鳥庵囀春女 森うた子
第一八番 桂玩庵猫快女 河村すの子(第一五番目呂二の妻)
第一九番 常春庵 利廼家恋猫庵 (大正9年当時)
第二〇番 十徳山竜駒寺 板愈良(板祐生) 富士山に関する物
第二一番 松寿山祥湖寺 鈴木祥湖
第二二番 横臥山夜歓寺 陽咸二 支那の物一切
第二三番 帳機山悟楽寺 鈴木佐吉
第二四番 白金庵紅王女 有坂改子
第二五番 於祝山猿戯寺 藤浪米太郎
第二六番 万年山桃源寺 田中源吉
第二七番 老山不宝来寺 高崎実 鶴と亀
第ニ八番 奉捻山漫作寺 大竹昌春  
第二九番 雅俗山倶楽寺 黒岩日出雄 商店肘緘
第三〇番 面茶山誓三寺 森青山  
第三一番 寿多有山趣味梵刹 スタール(Frederick Starr) 千社札
第三二番 夢香山童楽寺 吉田永光
第三三番 天禄山蛙宝寺 小沢一蛙

上記リストの中では有坂與太郎、板祐生はこけしとの関わりが深い。

我楽他宗については村西柳舟が〈鳩笛・5号〉(大正14年7月)に書いた一文がある。そこには下掲のように我楽他宗に入れ代り関わった人たちの名前の一部がリストアップされている。

「我楽他宗」村西柳舟 〈鳩笛・5号〉

我楽他宗の集まり(北越山文殊寺 松平康荘侯爵邸)

年に4回ほど〈趣味と平凡〉という短冊形の機関誌を発行した。

〈趣味と平凡〉第6号

また、〈我楽他宗寶〉という通信シンブンを発行していた。

我楽他宗寶という通信シンブン

なお三田平凡寺の我楽他宗とは別に、関西にも昭和5年頃から西宮雅楽多宗という趣味の集まりがあった。こちらは「我楽他」ではなく「雅楽多」の字を使っていた。「雅な楽しみ多し」という意味らしい。昭和初年に何回も宝物展覧会、懇親会を開催していたが、東京の我楽他宗とは別の集まりである。大阪こけし教室の会員であった阿部四郎は関西雅楽多宗のメンバー(第二十三番阿呆山底無寺)であった。

〔参考〕

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