現在西田記念館に収蔵されている浪江古こけしを発見した人。このこけしは大野雲外から同じ集古会会員の清水晴風を経て林若樹の手をわたり、さらに西田峯吉の所蔵するところとなった。遠刈田の佐藤重松の作と推定されている。
胴底の紙票には「磐城國双葉郡浪江町 コケシ這子 大の雲外」と書かれている。
大野雲外、本名延太郎(のぶたろう)は文久3年(1863)の生まれ、東京帝国大学理科 大学人類学教室に図工として採用され、明治35年に助手となった。日本の人類学の草分けである坪井正五郎の研究に協力した人である。おそらく当初は、大学人類学教室で発掘品や考古資料のスケッチを担当した専属画工であり、やがて坪井らの指導を受けて研究者、助手として活躍したのではないかと思う。大野は貝塚、石棒、アイヌ民族、文身などに関する多くの論文を東京人類学会雑誌などに発表しており、先史考古図譜・日本考古図譜・考古學大観などの著作もある。
大野延太郎はまた明治29年に設立された集古会の発起人でメンバーでもあり、これが清水晴風や林若樹との接点になったと思われる。
大野延太郎は貝塚や古墳の発掘などに各地を歩き回った。現在重要文化財になっている麻生遺跡出土の土面(縄文晩期 東京大学総合研究資料館蔵)は大野が地元の収集家から預かり、坪井正五郎によって学界に紹介されたものである。
こうした活動の中で浪江のこけしも民俗資料として大野延太郎の手に入り、のち集古会で玩具博士といわれた清水晴風に贈られたものと思われる。大野延太郎は昭和13年に75歳で亡くなった。
〔参考〕