第1回内国勧業博覧会

明治10年8月から11月30日にかけて、上野の寛永寺本坊跡に建てられた煉瓦造の美術館を中心にして開催された博覧会。初代内務卿大久保利通の提案により、内務省の主導で開催された。
明治政府は明治6年のウィーン万国博覧会に初めて公式参加して日本館を設置し、また岩倉視察団を送ったこと等により、勧業博覧会開催の意義を認識して明治9年の自国での開催を計画した。西南戦争により一時開催が危ぶまれたが、予定通り実施された。日本では江戸時代から博物学(本草学)的な関心をもとに多くの物産会は行われていたが、勧業という名を冠して殖産興業を目的とした博覧会はこれが最初であった。
しかし、多くの人々にとって「博覧会とは何か」が正しく認識
されていなかったため、出品物の収集は各府県の出品取扱人の裁量による勧誘によって行われたというのが実情であった。
上野公園に設けられた約10万平方米の会場には、美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられ、寛永寺旧本坊の表門の上には大時計が掲げられた。また、公園入り口に造られた約10メートルのアメリカ式の地下水汲み上げ用風車(下掲図版参照)が備えられ、また上野東照宮前から公園にかけての数千個の提灯が掲げられた。入場者数は延べ45万人に達したが西南戦争やコレラの流行もあって大久保利通の期待を下回り、財政的には満足できる結果ではなかったと大久保はイギリス公使Sir Harry Smith Parkesに語っていた。しかし、勧業政策としての内国博の有用性は十分認識され、以後の博覧会の元型となった。

明治10年上野内国勧業博覧会 河鍋暁斎筆

この内国勧業博覧会に土湯、弥治郎、青森などからこけしを作った工人たちが各種木地物を出品していることが山本陽子の国会図書館における調査で明らかになった。
土湯からは名主であった阿部栄七が出品者となって佐久間浅之助等が製作した木地製品(茶入れ 茶臺、菓子入、茶盆、辨當、糸巻、芥子入、三重盃、食膳、漏斗、徳利袴、烟草入、椀、燭台、碁筺、碁盤足)を出品している。


第一回内国勧業博覧会出品目録(明治10年)阿部栄七(佐久間浅之助)

また弥治郎からは、佐藤常治(飯坂の佐藤栄治の師匠)がこけし(玩具木偶)等の木地製品を出陳している。


第一回内国勧業博覧会出品目録(明治10年) 佐藤常治

また出品者側の記録として「佐藤常治 躑躅材玩具木偶  長尺 五寸五分 金一銭五厘」という出品時(明治10年7月)の出品物説明書が残っている。の時、常治が木偶のほかに出品したのは茶入れ、茶台、煙草入れ、独楽など7点ほどであった。ちなみに独楽は径尺  1寸5分で3銭であった。


明治10年7月内國勧業博覧会出品物説明書(高橋五郎蔵)

青森からは、県庁の出品として、津軽郡大鰐村の澤田九郎兵衛が製作人の茶椀入れ、香合、煙草入れ、盃台、薬籠、根付が記載されている。また九郎兵衛の後には有名な津軽の唐塗(韓塗)を代々継承する青海源兵衛の出品がある。


第1回内国勧業博覧会出品目録青森県第十四類

〔参考〕

  • 山本陽子:内国勧業博覧会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・4〉(令和2年10月)
  • 第1回内国勧業博覧会

 

 

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