佐藤常治(さとうつねじ:1832~1883)
系統:弥治郎系
師匠:佐藤永助
弟子:佐藤常吉/佐藤久三郎/毛利栄治
江戸末期から明治初めにかけて活躍した刈田郡八宮(現・弥治郎)の木地屋。天保3年の生まれ。父の佐藤永助より木地を習ったと思われる。父永助は文久元年7月9日になくなり、常治が家督を継いだ。
飯坂に移った佐藤栄治(毛利栄治)の師匠として知られる。
佐藤常治の名前は、小倉家所蔵の文久2年山神講掛図裏面に書かれた十名(高梨左蔵、渡辺夘吉、佐藤佐吉、新山栄蔵、新山栄吉、佐藤熊治、小倉嘉蔵、毛利忠治、佐藤庄吉、佐藤常治)の一人として表れる。
弥治郎のこけしは、佐藤東吉(東蔵の長男)と佐藤常治が三住の木地師佐藤與四郎のこけしを見てはじめたという聞き書を菅野新一が得ている〈山村に生きる人々〉。常治は弥治郎こけし創生にもかかわった重要な工人である。
毛利忠治は毛利八蔵の四男、八蔵の長女はるに養子に入ったのが丈助で、この夫婦の四男が毛利栄治、後の飯坂の佐藤栄治であった。栄治は明治12年ころより佐藤常治の家に入り木地を修業した。
「佐藤常治はデロレンという祭文語りでもあった。青根で湯治に来た伊達公の前で木地を挽いてお目にかけたこともあった。〈こけし手帖・17〉」という佐藤慶治からの聞き書きもある。また蔦作蔵は「とても敬神家であり、なかなかの利口者であって、村の相談事など常治さんの家に集まって話したそうだ。」と語っていた。
明治10年8月21日から11月30日まで東京の上野公園で第一回内国勧業博覧会が開催され、延べ45万人の入場者を集めたが、弥治郎からは、佐藤常治がこけし(躑躅樹玩具木偶)等の木地製品がその出品目録に記載されている。
また「佐藤常治 躑躅樹玩具木偶 長曲尺 五寸五分 金一銭五厘」という出品時(明治10年7月)の出品物説明書も残っている。寸法は、長すなわち丈が曲尺(かねじゃく)で5寸5分と言う意味。この時、常治は木偶のほかに茶入れ、茶台、煙草入れ、独楽など7点出品している。ちなみに独楽は径が曲尺で 1寸5分で3銭であった。
出品したヤミヨにたいして常治は褒状を得ており、下掲のように「木環を装するは嬰児に宜しきを観る」の評を受けている。
また、明治13年に開催された宮城県博覧会においても佐藤常治は、ヤミヨ、人形、コップ、茶置盆、卵コマなどを出品している。人形というのはこけしであろう。博覧会の開催場所は仙台区公園(現在の仙台西公園、天文台のあたり)で、明治13年8月8日より60日の会期、9564種30708点の出品数、4597名の入場者があったという。
佐藤常治は春から初冬にかけて青根に出稼ぎに行っていたようであるが、明治16年11月4日(旧暦10月5日)に青根で急死した、知らせを聞いた家族は驚き、急いで駆けつけて戸板で遺体を運んで帰ったという〈仙台周辺のこけし〉。一説では急病で倒れ、戸板で運んで帰ったが間もなく死んだともいう(佐藤慶治談〈こけし手帖・17〉)。行年52歳であった。
弟子の毛利栄治は、常治亡き後その長男常吉からも教えを受けたと言われている。
常吉は木地を継いだが、常吉の長女たかの婿となった久三郎は木地を挽かなかったようだ。
そのため飯坂に移った毛利栄治(佐藤栄治)以外に、佐藤常治家のこけしを継承した者はいない。
〔参考〕
- 飯沼寅治:明治初年の弥治郎こけしの記録〈こけし手帖・185〉(昭和51年8月)
- 高橋五郎:弥治郎こけしの起源〈仙台周辺のこけし〉(昭和58年9月)
- 山本陽子:内国勧業博覧会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・4〉(令和2年10月)