藤木節斎

大正年間に神田万世橋畔〈花房町〉に「藤木美術店」を開いて郷土玩具を扱った人。この店ではこけしも売られたという。
藤木節斎はもともとは横浜の印章業者。日本の印章は本来象牙や木を彫って作る刻印であったが明治初年来日した西洋人はゴム印を使用していた。そこで、藤木節斎は明治15年ころ、横浜の居留地にいたケヤコ-フという人からゴム印製法を口述で伝授され、当時日本にはゴムプレス機がなかったので、ありあわせの器具と歯科医用のゴム顎をつくる蒸気釜を用いて、数か月の試作を経てやっとゴム印の製造に成功した。

その後の経緯は不明であるが、大正年間に神田万世橋のたもとに「藤木美術店」を開設して郷土玩具類を扱った。この店について有坂与太郎は「三軒間口の土間いっぱいに各地から集めた玩具が山積みされ、棚ざらしでちょっと触っても手が真っ黒になるようだった。看板にはたしか大供玩具と書いてあったような気がする。」と語っている。値段は現地の約5倍ほどで売られていたという。
加藤文成は「諸国の郷土玩具は、この店に最も集まっており、大正5、6年ごろが盛況であった。」と語っていた。

なを、斎藤昌三はこけし蒐集の始まりの消息に関して、「この玩具趣味を今日のように一般化さした裏面の貢献者は、清水晴風や淡島寒月翁等の蒐集から始まったが、ヒマにあかせて各地を行脚したのは、明治末期の山三不二(佐野健吉)や玩愚洞可山人、橋田素山等で、次で外神田に藤木老の専門玩具店の出現となり、三越の武田真吉氏を中心に大供会が組織され、機関紙の発行から百貨店の展観と発展したのが、漸次全国的に趣味家を抬頭させた遠因となって、今日に至ったものであろう。」と記し、藤木老、すなわち節斎を玩具趣味一般化させた貢献者の一人として評価している。

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