三好米吉

関西の趣味人たちのネットワークの一翼を担った人。こけし古品を扱った乙三洞(森田政信)は三好と交流があり、三好の死後その家作で開業していたことがあった。


釈瓢斎による三好米吉の似顔絵 
釈瓢斎は戦前の大阪朝日新聞「天声人語」の執筆者。

米吉は明治14年春に神戸で生まれた。その後、備後三原に移って成長した、少年期が終わるころに大阪に出て、成人後宮武外骨の滑稽新聞社に関わることなった。
滑稽新聞は、明治34年の創刊であったが、その第29号から第173号まで三好米吉がこれの発行人、編集人を務めることになった。これは、滑稽新聞の過激な内容や表現で外骨に万一のことがあっても発行を続けられるように別人を立てたためといわれている。また米吉自身も「何尾幽蘭」という筆名で記事を書いていた。滑稽新聞はかなりの成功をおさめたが、内容に問題があるとして発行禁止命令等がでるということになり、宮武外骨は発禁に先立って明治41年173号を自殺号としてこれを廃刊にした。

滑稽新聞 100号 明治34年5月

三好米吉は明治43年に独立し、同年5月15日に大阪市平野町3丁目に「柳屋書店」を開業した。開業にあたっては江戸堀の荒木書店の世話を受け、またカタログを出す時には香取仙之助(佐竹草迷宮)の協力があったという。当初は一般の書店だったが次第に錦絵や郷土玩具なども扱うようになり、文人・画人などの揮毫短冊も扱うようになった。有名作家の短冊をうについては与謝野晶子の助言があったという。ここでは流行作家となっていた竹久夢二の版画や夢二のデザインによる小物(封筒・用箋・千代紙等)を扱うようになった。この時期の夢二の版画は柳屋版と呼ばれる。店の装飾には富本憲吉がかかわった。柳屋の包装紙も憲吉のデザインという。また、大正2年11月からはユニークな目録〈美術と文藝〉を発行するようになった。
小説家の藤沢桓夫は当時の柳屋画廊について次のように書いている。
「 この平野町の通りには、南側に、私の好きな店が一軒あった。それは柳屋と言う気の利いた封筒などを売る文房具店であった。(本屋であった様な気もする。)その店の陳列窓には竹久夢二の木版の大きな女の絵が幾つも飾ってあった。それらのひどく新しい色の感じの絵を見るのが私には非常な楽しみであったのだ。」
平野町では11年間営業し、大正10年1月八幡筋畳屋町へ移り同時に店名を「柳屋画廊」と改称した。八幡筋に移ってからは目録名を〈柳屋〉と改め、大正11年12月より発行するようになった。


〈柳屋・42〉「考現の巻」(昭和6年)
表紙は乙三洞が描いた八幡筋界隈のスケッチ

また、三好米吉は、橋田素山の紹介で知った 板祐生の孔版画を高く評価して、亡くなるまで裕生に物心両面にわたる援助を続けたという。この思いを祐生は、「柳娘」〈富士の屋草紙・18〉( 昭和3年)に「…私の好きな柳屋。私の趣味を育ててくれた柳屋。大阪へ出たら柳屋だけはのぞかう…」と書いていたが、それは見果てぬ夢に終わったという。
大正から昭和にかけて関西の趣味人の集まりであった娯美会においても、その会員として活動した。
昭和18年に没す、行年63歳。
三好米吉の没後、柳屋画廊の後に森田乙三洞が入った。三好米吉自身がこけしと如何に関わったかは定かではないが、柳屋書店、柳屋画廊を介して多くの関西趣味人のネットワークの重要な結節点にいて、こけし蒐集家との交わりも多かった。
軸原ヨウスケ、中村裕太の〈アウト・オブ・民芸〉では「複製芸術ー趣味の版画や出版物ーと民芸」の部分で三好米吉を取り上げている。

〔参考〕

  • 橋爪節也:郷土玩具から広がる「趣味人」ネットワークと近代・大阪の想像力〈上町台地今昔タイムス〉(平成29年4月)
  • 森田 俊雄 :おもちゃ絵画家・人魚洞文庫主人川崎巨泉―浮世絵師からおもちゃ絵画家への軌跡―〈大阪府立図書館紀要・38〉(平成21年3月)
  • 三好淳雄:(三好米吉の子息):「父へのレクイエム」〈日本古書通信〉平成18年12月号

 

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