長谷川利行

大正末期から昭和初期に作品を発表した画家。
明治24年3月(戸籍上では7月9日)京都山科の長谷川利其、テルの三男に生まれた。父利其は伏見警察署勤務。
和歌山県湯浅の市立耐久中学校(現耐久高校)に進学、学生時代に同人誌発行、文芸家との交流もあった。明治42年耐久中学校を中退し、文芸活動や独学で絵画を学んだりした。大正10年に上京、思い立つと画作に没頭し、帝展、二科展に出品したが、落選を繰り返した。関東大震災に遭い一時帰郷するが、大正15年再上京、第13回二科展に出品した「田端電信所」が入選した。在京の画家たちとも交流するようになり、第14回二科展では樗牛賞を受賞するなど、画家としての評価も高くなった。一方で生活は安定せず、日暮里の寺の仮寓には素描の山が散在していたらしい。絵をかき、それを換金し、酒を飲み続けるという荒れた生活を送っていたという。金持ちには高く絵を売りつけていたが、一方で後輩の苦学生には大盤振る舞いをしていたという話もある。後年は木賃宿や簡易宿泊所で暮らし、ひたすら絵を描き続けていた。昭和15年に三河島の路上で倒れ、行路病者として養育院板橋本院に収容されたが、10月12日死亡、行年数え年50歳、病名は胃がんであった。
死後、彼の画業は高く評価されるようになり、回顧展は繰り返し開催された。主なものは、昭和51年に三越本店で「放浪の天才画家 長谷川利行展」が、平成12年に神奈川県立近代美術館、宇都宮美術館、三重県立美術館、東京ステーションギャラリーで〈歿後60年 長谷川利行展〉が、平成30年に福島県立美術館、府中美術館などで「長谷川利行展 Hasekawa Toshiyuki – Retrospective」が開催された。
この長谷川利行の素描の中に二枚のこけし絵がある。昭和51年の三越の回顧展では展示された。こけしに「小罌粟」の当て字を使うのは珍しい。小罌粟=雛罌粟(ひなげし)=虞美人草とのイメージ連鎖であろうか。

長谷川利行の水墨素描

この水墨素描は昭和10年前後に描かれたものと思う。二本の鳴子のこけしを描いたものであろう。デフォルメされているので誰のこけしを描いたものかわからない。
昭和10年前後であれば長谷川利行の生活はすでにかなり荒れていた時期と思われる。それでもなおこの時代に、絵画や文芸を志す人たちの眼に、関心を持たれてこけしが映るという雰囲気があったということは興味深い。こけしの愛好家、収集家以外の文化人たちも、こけしに関心を向ける時代的背景があったのかもしれない。第一次こけしブーム前夜である。

〔参考〕

  • 〈放浪の天才画家 長谷川利行展〉図録(毎日新聞社)(昭和51年2月)
  • 〈長谷川利行展 Hasekawa Toshiyuki – Retrospective〉図録(平成30年)


左:〈放浪の天才画家 長谷川利行展〉図録
右:〈長谷川利行展 Hasekawa Toshiyuki – Retrospective〉図録

 

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