明治17年9月16日、岡山県邑久郡本庄村に生まれた画家。本名は竹久茂次郎。実家は酒造業で竹内菊蔵の二男。ただし、兄は早世したので実質的には茂次郎が跡取りであった。しかし、明治33年に父菊蔵は酒屋をたたみ、九州の八幡製鉄所に勤めたため、一家は福岡県八幡村に移った。茂次郎自身も一時八幡製鉄に勤めた。
明治34年18歳の時、家を出て単身上京、翌35年早稲田実業学校専攻科入学し、文芸創作活動にも手を染めた。その後、友人であった荒畑寒村に頼んで平民社発行の『直言』にコマ絵を描かせてもらえることになり、次第に挿絵作品等が評価されるようになった。明治38年に〈中学世界〉に載せた「筒井筒」が第一賞入選し、これ以後夢二の雅号を用いるようになった。このころ早稲田実業学校を中退した。
画業に対する声望は次第に高まり、多くの雑誌の挿絵や、美人画を描くようになり、人気画家となった。画集はベストセラーになり、作品展覧会も次々企画されるようになった。夢二作品のコレクターも多く出現したが、仙台のこけし蒐集家天江富弥もその一人であり、夢二本人とも深く親交を結んだ
夢二は各地に旅行するようになり、また各地からも招待された。大正6年には福島県を旅し、土湯温泉に一泊して阿部治助のこけしを求めている。
大正末年から昭和にかけては女性問題での醜聞もあり、やや経済的に苦しい時期を迎えたが、一方でこの時期に商業主義にまみれた美の評価にうんざりして、世俗と離れて美と向き合いたいという気持ちが強くなり、昭和5年群馬県の伊香保温泉に約1ヶ月滞在して、ここで産業美術研究所(榛名山美術研究所)の構想を練ったりした。
夢二は長い間海外旅行を念願としていたが、晩年になって昭和6年ようやく実現させることができた。昭和6年5月7日に横浜を出航し、ホノルルを経由して渡米。1年余アメリカ各地に滞在した後、ヨーロッパに渡り、欧州各国を廻って昭和8年9月に帰国した。
この年の11月には台湾で展覧会を開くなど多忙であったが、その後体調がすぐれず、結局結核のため、翌昭和9年9月1日に他界した。行年数え年51歳。残念ながら伊香保の産業美術研究所の開設は実現できなかった。
死後、欧米旅行のカバンの中から1本の治助が、また構想していた産業美術研究所のための遺品の中から1本の治助が出てきた。その2本は大正6年に土湯に一泊した時に夢二が求めたものである。
こけしというものが、大正期に美を志す人の目に留まり、海外旅行に際してもその伴侶として同行したという事実は興味深い。また、産業美術研究所にということであれば、夢二は世俗の商業主義と離れた美としてもこけしを憧憬的に見ていたのかもしれない。
この2本は後に仙台の夢二愛好家であり、またこけし蒐集家であった天江富弥のもとに納まり、現在は高橋五郎蔵となっている。裏面には「夢二遺品 はるな山にて」「夢二の忘れもの 榛名にて」の天江富弥による墨書がある。
阿部治助〔左より 19.4cm、17.0cm(大正6年)(竹久夢二旧蔵)〕
欧米旅行に持参の1本と産業美術研究所のための遺品の1本
なお天江富弥と竹久夢二との親交は深く、天江が昭和4年に結婚した時には夢二はお祝いに絹本墨筆の竹図一幅を贈っている。また夢二の死後にも天江富弥は「竹久夢二回顧展」の開催などに尽力して遺族を支え続けた。夢二からの書簡なども相当数あり、天江の死後、「天江富弥旧蔵・竹久夢二関係資料 一括」として東京の古典籍オークションに出された。