久留島武彦

大分県玖珠郡森町(現・玖珠町)出身の児童文学者。童話を中心に近代日本の児童文化充実に貢献した。児童文化の一環としてこけしを含む郷土玩具の保存収集活動にも参画した。西澤仙湖、清水晴風らと共に、明治期の玩具仲間の会である大供会を立ち上げたメンバーであった。

久留島武彦

明治7年6月19日、玖珠郡森町の久留島通寛、恵喜の長男に生まれた。父通寛は九州森藩第十代藩主久留島通明の弟。武彦は明治20年大分中学に入学、英語教師をしていたアメリカ人宣教師の Samuel H Wainright と出会い影響を受ける。特に日曜学校で語られる子供向けの寓話に魅かれ、児童教育、児童文学に興味を持った。明治23年、師の Wainright が神戸の関西学院に転勤したのに従って関西学院普通学部に転校した。明治27年日清戦争に従軍、遼東半島に渡った。戦地から尾上新兵衛という筆名で投稿した軍事物語が〈少年世界〉(博文館)の主筆であった巌谷小波に認められ連載された。帰国後、明治29年3月に巌谷小波を囲む文学研究会「木曜会」の立ち上げに加わり、童話の執筆を続けた。この「木曜会」には押川春浪、黒田湖山、生田葵山、西村渚山ら二十人近い人々が参加したらしい。永井荷風も参加するようになり〈日和下駄〉にも木曜会に触れた記載がある。
久留島は、この間にいくつかの新聞社や海上輸送会社等にも籍を置いた。
明治39年には、お伽倶楽部を設立し、各地の幼稚園や小学校での口演童話活動を積極的に行うようになった。
このころには児童に関わる文物に関心が広がり、集古会には「犬に関するもの」を趣味の範囲として加わり、また明治42年からは清水清風、西澤仙湖らが作った大供会にも参加するようになった。大供会は人形玩具を愛好するメンバーによって 結成された集まりで、その第1回は西澤仙湖邸で開催され、清水晴風、久留島武彦、水谷幻花、石倉米豊、久保佐四郎、磐瀬玉岑の7名が集まった。大供会で記録のある初期6回の集まりのうち、久留島は第1、2、3、5回の計4回出席しており、坪井正五郎、林若樹等とも同席している。
明治43年渋谷区穏田(現在の神宮前)に早蕨幼稚園を開園し、幼児教育に取り組んだ。明治44年、雑誌〈お伽倶楽部〉を創刊した。
同じ明治44年には日本にボーイスカウトを紹介する活動も行い、その視察旅行にアメリカへ出かけた。娘婿の久留島秀三郎らとともに日本のボーイスカウト運動の基礎作りにも参画した。大正13年デンマークで開かれた第2回世界ジャンボリー(World Scout Jamboree)に日本派遣団の副団長として参加、訪れたアンデルセンの生誕の地などでアンデルセンの復権を訴えた。心を動かされたデンマークの人々から「日本のアンデルセン」と呼ばれ、デンマーク国王よりダンネブロウ四等勲章を授与された。
昭和20年5月、奈良県十津川村で口演をしていた間に、東京の自宅及び早蕨幼稚園が空襲で焼失の報を受け、それからしばらく奈良に住むことになった。最初は、称名寺の書院に寄寓し、昭和23年末に、傳香寺境内に寓居香積庵を立てて、昭和24年春にここに移った。奈良県下の小中学校はじめ、全国各地を遊説して、童話の普及につとめた。
昭和30年には「全日本移動教室連盟」の会長となったが、この団体は音楽・演劇・講演などの「巡回文化教室」を開催しており、後の「公益財団法人 日本青少年文化センター」の母体となった。
昭和33年には紫綬褒章を受章した。
昭和35年6月27日没、行年87歳(数え年)。
没後、昭和36年には、その業績を記念して「公益財団法人 日本青少年文化センター」によって久留島武彦文化賞が設けられた。この賞は青少年文化の向上と普及に貢献した人および団体を顕彰して授与される。
故郷の大分県玖珠郡玖珠町大字森にある三島公園横には「久留島武彦記念館」が建てられている。また玖珠町は「童話の里」と呼ばれている。

久留島武彦記念館 玖珠町森 三島公園

〔参考〕

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