中村正夫

中村正夫(なかむらまさお:1951~)

系統:鳴子系

師匠:奈良吉弥/菅原康夫

弟子:

〔人物〕 昭和26年10月28日、秋田県鹿角郡十和田町大湯(現・鹿角市十和田大湯町)の農協職員中村勇・ミエの次男として生まれた。秋田県立十和田高校を卒業後、昭和45年に青森県十和田市休屋の(株)南祖庵に入社した。
休屋は十和田湖南岸の湖畔に位置する十和田湖の中心観光地で、乙女の像、十和田神社、遊覧船等が有名である。南祖庵は休屋で最大規模の地上3階地下1階の食堂兼土産物屋で、遊覧船乗り場がある桟橋前広場に立地していおり、20名近い従業員が勤めていた。但し晩秋から初春にかけては雪深く風も強く店は締めていた。従業員の給料もこの時期は減額支給となるので、南祖庵の社長である川原鬼一が社員のために策を練った。女性社員は休屋以外の近隣施設で季節社員として話を進める事ができたが、男性社員は季節限定の就職は中々困難な状況であった。川原は大湯温泉に住んでいたので、地元の名士で教育者であり、当時地域おこしの木工所と漬物工場を経営していた奈良靖規に相談した。奈良靖規は木地を習得させて伝統こけしを作れば良いと従業員を受け入れてくれた。昭和44年11月から高谷槙夫(たかやまきお 昭和20年生まれ・故人)と菅原康夫(すがわらやすお 昭和25年生まれ)が翌年の3月まで奈良吉弥から木地挽きを師事した。奈良靖規と奈良吉弥は親戚ではないが、昭和29年中学卒業後に吉弥は靖規の経営する十和田工芸所の職人となった。吉弥が鈴木清、昭二父子のところで木地の再修業をして帰郷した昭和37年に独立を後押し、仕事を優先的に回してくれた恩人が靖規であった。尚、奈良靖規は、生涯木地挽きはしていない。奈良吉弥は仙台では縦挽き轆轤で修業したので、高谷槙夫と菅原康夫も縦挽き轆轤で挽いた。高谷はこけしの描彩はしなかったが、菅原はこけしの描彩も行った。翌年の45年11月から46年3月まで順調に修業は続いたが、46年4月12日に交通事故で吉弥が32歳で非業の死を遂げたので、46年11月から47年3月まで修業を始めた中村正夫は腕の立つ菅原康夫から十和田工芸所で木地を習得した。
地元、大湯出身の中村正夫の事を靖規は目をかけた。中村も上達が早く、初年度には嵌め込み鳴子型こけしを作ったが、描彩の難しさを実感した。2年目は47年11月から48年3月まで菅原康夫と川連から呼ばれた大類連次からも指導を受けた。連次は縦挽き轆轤の横に回り込み横挽きの様にして奈良靖規描彩こけしの木地を挽いていた。若い職人には面倒見が良かったが、奈良靖規と大声で言い争っていたのが印象的だった。昭和48年3月に奈良靖規の強い指導の下に長谷川清一型のこけしを製作した。こけしガイドの写真を参考にして10数本作ったが、特徴をつかんだ佳作で十和田工芸社でも販売もされた。

中村正夫 平成28年9月18日

 尚、この頃十和田工芸所に昭和48年3月より高校を卒業した今晃が入所して、中村とは僅かな期間一緒に働いている。奈良靖規は中村に長谷川清一型を、今に小松五平型を本格的にやらせたいと、この時話していた。
 冬場の閑散期対策として、こけし作りを数年やってきたが、休屋近辺の道路環境が改善されて通年営業が可能となり、南祖庵の若手社員こけし研修は48年3月を持って終了してしまった。その後、休屋は昭和50年前後から空前絶後の観光ブームに乗り、こけしの事は忘れられた存在となった。
 平成4年に南祖庵は廃業して、中村正夫は日本ハムの子会社に勤め定年を迎えた。平成16年頃から腱鞘炎を患い、現在は木地は挽けない状況である。
 廃業した南祖庵の経営者夫妻は平成16年に相次いで死去し、建物だけ国立公園内にのこり、景観上の配慮で覆いをとりつけられたまましばらく残っていたが、国費で撤去されることになった。

南祖庵

〔作品〕下掲右端は最初に手掛けた鳴子型。左二本は長谷川清一の型である。


〔右より 23.3㎝(昭和47年2月作)本人型、25.2㎝(昭和48年3月)長谷川清一型、24.6㎝(昭和48年3月)長谷川清一型太胴(中根巌)〕

自分が生まれた十和田町大湯温泉の作者だった長谷川清一のこけしを追求し、その再現にかなり成功していたのだが、十和田湖までの交通事情が改善されたことにより、冬場でも観光客が入るようになって、こけしを作る時間が無くなり休止に至ったというのは惜しかった。

〔伝統〕鳴子系

〔参考〕

  • 中根巌:中村正夫さんの事〈こけし山河・281〉(平成28年11月)
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