生年月日、経歴等は不明であるが、沢田家は、間宮、村井、油川、田中等の諸家と共に大鰐の古い
居木地師である。木村弦三は〈木形子異報・6〉で明治20年の沢田九郎兵衛の挽物値段控帳について下記のように紹介している。
「今は死んだ大鰐の工人、澤田九郎兵衛老から、何時か貰ひ受けた明治二十年の現物値段控帳が手許に存してゐる。今その十枚ばかりの半紙を繰つてみると、記入された種類は凡そ百八十五点、そのうち子供に関係あるものと云へば『小地操七厘、釜地操三つ入四銭、同五つ入五銭、なめり棒三銭、手遊水桶七銭、子供ふくベ一銭五厘、手遊槌七銭、呼子笛五銭、臼杵男四銭、同女五銭五厘』其他である。右のうち地操(ぢぐり)はいふまでもなく独楽であるが、寸法によって種類が多く値段も一様でない、また皿形、駒形等と区別されてゐる。なめり棒は例のおしゃぶりであり、これの大形はこけしとも云ふべきものであったらう、白木無彩のまま大形のものだけへは、時々目鼻を入れた、これが大鰐こけしの最も古い形態の一つである。 〈木形子異報・6〉(昭和9年12月)」
なお、澤田九郎兵衛は明治10年に上野で開催された第1回内国勧業博覧会に木地製品茶椀入れ等を出品している。
目録では出品は県庁からで、津軽郡大鰐村の澤田九郎兵衛は茶椀入れ、香合、煙草入れ、盃台、薬籠、根付の製作人として記載されている。九郎兵衛は褒状を受け、下掲のように「材料の風乾其宜しきを得薄製にして光滑なり其茶碗筒の如き筒底を活脱して茶托と為すべし此工稍新奇を観る松皮製の香合も亦佳なり」との評語を得た。
また明治23年の第3回内国勧業博覧会においても南津軽郡蔵館村として澤田九郎兵衛は菓子入れを出品している。
沢田九郎兵衛の博覧会への出品は、おもに木地製品の茶椀入や菓子入であったが、木村弦三が貰い受けた明治二十年の現物値段控帳にも記載されているように多くの木地玩具も製作していた。
〔参考〕
- 山本陽子:内国勧業博覧会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・4〉(令和2年10月)