初代源兵衛は江戸時代中期の若狭出身の塗師(ぬし)、本名は池田源兵衛、津軽四代藩主の津軽信政にまねかれて弘前に移った。
源兵衛は藩主の命で江戸にのぼり、塗師の青海太郎左衛門に入門してさらに技術を磨こうとしたが、翌年江戸で客死した。父の遺志を継いだ二代目の源太郎は、蒔絵師山野井の門で修業をするが、 その後元禄10年に父と同じように江戸で青海太郎左衛門に入門し、さらに修業を積んだ。 やがて源太郎は青海一門の一子相伝の秘事「青海波塗」を伝授された。 太郎左衛門の死後、帰藩した源太郎は享保12年頃より師の姓青海と父の名源兵衛を継いで青海源兵衛を名乗るようになった。この青海源兵衛が津軽塗の原型を作り、代々の源兵衛がその技術を伝えたという。なかでも 韓塗(唐塗、から塗) は津軽塗の代表格であり、現在でも最も多く生産されている。 韓塗独特の複雑な斑点模様は、何度も塗っては乾かし、そして研ぐという作業を繰り返し、 全部で四十八の工程から生み出される。
宝暦8年の序を持つ「津軽見聞記」には「弘前一流の塗物あり、から塗といふ。文庫、硯箱、重箱、提重、刀脇差など塗り立てる所、上方の檳榔子塗に似て、却って格別見事なり。大阪にて此の塗物を贋せさするになかなか似るべくもなし。塗師三人あり。銘々流儀ありて少し宛の違ひあり。就中青海屋源兵衛を上手とす。残二名はこれ別れなり。」との記述がある。
明治の廃藩置県後は、津軽塗への藩による保護政策が失われ、漆樹の乱伐もあって生産継続の苦しい時代があったが、やがて県の助成や、士族や商人による漆器の製造所や組合組織の結成などによって津軽の漆器産業は再び息を吹き返すことが出来た。
明治6年に開催されたウィーン万国博覧会には、青森県が「津軽塗」という名前で、6代目の青海源兵衛の作品を出展して賞を受けている。 「津軽塗」という名前はこのころから世に広く知られるようになった。
青海源兵衛はその後の内国勧業博覧会にも積極的に出品している。
下掲は明治10年に開催された第1回内国勧業博覧会出品目録であるが、県庁出品の澤田九郎兵衛の茶碗入等のとなりに、テーブル、手箱、巻煙草入等の出品者として紺屋町の青海源兵衛の名があり、この出品目録では韓塗の表記も使われている。
こけし工人を含む津軽の木地師達は、こうした評判の高かった津軽塗の下木地も盛んに挽いていた。
青海源兵衛はまた明治11年にフランスで開催されたパリ万国博覧会にも漆器手箱と巻煙草入を出品している。