明治23年4月1日~7月31日の期間で、東京上野公園において開催された3回目の内国勧業博覧会。
当初は1890年が皇紀2550年にあたることから規模を拡大したアジア万国博覧会が企画されたが、当時の大蔵大臣松方正義などの意見によって内国勧業博覧会となった。
会場は3万2,000平方メートルで、本館のほかに、美術館、農林館、動物館、水産館、機械館、外国製品を並べる参考館からなり、建物全体の面積は、第2回の約1.3倍、出展品数は441,458点と増加した。入場者数は不景気、インフルエンザの流行、連日の雨などの影響もあって1,023,693人とやや期待を下まわった。会場内では、日本ではじめての電車となる路面電車が運転された。
この博覧会には宮城県刈田郡宮村(遠刈田)、青森県大鰐等、岩手県等より木地製品の出品があった(〈第3回内国勧業博覧会出品目録〉による)。
遠刈田から、佐藤直助、直治、重松、文治が、木地製品として茶道具、茶入、煙草入、糸巻等を出品している。また鳴子からは、沢口吾左衛門文書の漆器商の部に記載された遊佐源之丞、遊佐安五郎、沢口吾左衛門、遊佐忠次郎(忠治郎)、遊佐貞吉が、塗師の部に記載された遊佐六兵衛が出品している。
また宮城県からは玩具を佐藤吉五郎、佐藤善八、佐藤周助が、教育用品を佐藤周治郎、佐藤七蔵が出品している。
玩具 ヤミヨ 刈田郡宮村 佐藤吉五郎
傘独楽 〃 佐藤善八
呼子独楽 刈田郡宮村 佐藤周助
教育 棍棒 〃 佐藤周治郎
亜鈴 〃 佐藤七蔵
吉五郎は佐藤吉弥の父、善八は佐藤治平の叔父(母の弟)、周治郎は豊治の父で静助の祖父にあたる。佐藤七蔵は周右衛門の弟で、佐藤文助の祖父にあたる。佐藤善八は先代菊治(治平の父、周右衛門の弟)の義弟である。
佐藤周助は明治6年生まれ、この時数え年18歳であり、この博覧会に出品した直後に山形に出て薄荷入れなどを挽き、明治28年に大蔵村熊高を経て明治33年に肘折に移る。
青森からは温湯(山形村)、大鰐、蔵館からの出品で、第七類の木地道具、第十二類の玩具、教育への出品があった。
青森県
菓子入 南津軽郡蔵舘村 澤田九郎兵衛
杓子 ○槌 南津軽郡大鰐村 田中 忠太郎
煙草入 ○杓子 〃 油川 伊助
茶盆 ○茶台等 〃 横山 佐吉
茶碗入 ○煙草入 〃 間宮 孫次郎
花活 南津軽郡山形村 盛 市太郎
茶具 〃 佐藤多左衛門
杯 ○茶器入等 〃 島津 彦蔵
筆立 南津軽郡大鰐村 間宮孫次郎
手遊 南津軽郡山形村 佐藤多左衛門
佐藤多左衛門は第四回内国勧業博覧会にも出品しているが、その時の表記は佐藤太左衛門となっている、佐藤伊太郎の祖父。田中忠太郎は田中重吉の父。〈こけし辞典〉の田中重吉の項目に、「父忠太郎の代には木地をやっていなかったらしい」とあるが木地に従事していたことがわかる。間宮孫次郎は間宮明太郎の祖父。島津彦蔵は彦作、彦三郎の父、間宮孫次郎は間宮明太郎の祖父である。
岩手県
椀 盛岡市内加賀野 安保彌次郎
安保彌次郎(嘉永6年12月10日~明治27年12月14日)は安保一郎の父。この博覧会に出品して4年後に42歳で亡くなった。
〔参考〕
- 山本陽子:内国勧業博覧会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・4〉(令和2年10月)
- 第3回内国勧業博覧会