安保彌次郎

安保彌次郎(あんぽやじろう:1853~1894)

系統:南部系

師匠:安保彌市郎

弟子:松田清次郎

盛岡の内加賀野で木地業を続けた安保家は非常に古い木地師で、元禄年間に美濃より秋田県鹿角郡安保へ移動して木地業を営み、後に二戸郡浄法寺の荒屋地区に移り、さらに享保年間に南部藩より二人扶持を与えられてお抱え木地師となり、盛岡に移住したといわれている
安保の家系は、彌一郎-彌市-彌助-彌七-彌吉-彌市郎-彌次郎-一郎まで遡れる。
きなきなの作者安保一郎の父彌次郎は、安保彌市郎、カネの長男として、嘉永6年12月10日生まれた。母カネは二戸郡田山村の安保惣四郎の長女、一家の故地より迎えた妻女であったと思われる。
彌次郎は父彌市郎より木地を習得したが、彌市郎の記載した木地寸法帳が残されている。

木地寸法帖 (盛岡松田家蔵) 中央右に「安保彌市郎」の名がみえる
木地寸法帖 (盛岡松田家蔵) 中央右下に「安保彌市郎」の名が、左上に「元治元年子七月」(1864)の日付が見える

彌次郎は岩手郡仁王村の小原勘蔵の三女ナヲを嫁に迎えたが、ナオの姉ヒサが松田和助に嫁いでおり、その縁で松田和助、ヒサの長男清次郎は安保彌市郎、彌次郎について木地を学んだ。
安保彌次郎は、明治23年に東京上野公園において開催された3回目の内国勧業博覧会に椀を出品している。この後、安保一家は内加賀野から穀町へ移った。


第3回内国勧業博覧会 安保彌次郎の出品

父の彌市郎は明治25年3月12日に亡くなり、彌次郎が後を継いだが彌次郎も明治27年12月14日に数え年42歳で亡くなった。博覧会出品の4年後であった。キナキナや玩具類も盛んに作ったはずであるが、作品は未確認である。
彌次郎、ナオの長男が安保一郎であるが、彌次郎が亡くなったとき、まだ数え年4歳であり、木地を習うことはできなかった。また松田清次郎も明治33年1月20日に亡くなったので、一郎は清次郎とともにハズミ車式一人挽き考案した煤孫茂吉について木地を学んだ。

〔参考〕

  • 山本陽子:内国勧業博覧会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・4〉(令和2年10月)

 

[`evernote` not found]