佐藤兵吉

天保2年12月19日、福島県土湯温泉の岩城屋旅館佐久間弥治右衛門三男として生まれた。米穀商加藤屋佐藤松五郎長女ナミと結婚して養子となった。
ナミとの間に茂作、嘉吉が生まれた。明治18年、膽澤為次郎が土湯にやって来て一人挽きの伝授を行ったときには、加藤屋が技術指導の教場となった。加藤屋の二階に足踏みロクロが据えられ、作業場になったという。膽澤為次郎は井枡屋に宿を取り、加藤屋に通って技術を伝えた。
〈福島県林野資料〉(明治38年)によると酒井誠師採録の佐藤兵吉談として以下の記載がある。
「土湯ハ戸数八十八戸アレドモ木地挽ハ二十戸アリタリ何レモ綱引ニシテ耶麻郡高森、大沼郡桑沢ト同ジキ器械ヲ用ヰタレドモ二人ヲ労セズシテ一人ニテ製作スルノ勝レタルヲ以テ足踏ミ轆轤ニ改良セント欲シ明治十七年静岡ノ人膽澤為次郎ヲ招聘シテ教師トナシ五ヶ月間授業スル約束ナリシガ已ムヲ得ザル事故アリテワズカニ一ヶ月ニシテ去レリ然レド其教ニヨリ漸次改良シテ今日ハ二人挽ヲ用フル者ナキニ至レリ」
次男嘉吉は自家で教える膽澤為次郎に就いて木地を学んだが、兵吉も木地を挽いたかは不明。
硯作りが巧みで、明治10年の第1回内国勧業博覧会においては硯を出品している。


第1回内国勧業博覧会 佐藤兵吉 出品人名簿とその硯の評

出品した硯は會ノ峯の原石によって作ったと注記がある。出品人名簿には、兵吉の硯の年間製作数は百個、価額は25圓、製作開始は嘉永元年とある。兵吉の硯作りは単なる趣味での製作ではなく、生業の一つであった。
兵吉の次男嘉吉は硯作りも名人であったと言われていたが、これも父ゆづりの技術であったことがわかる。
兵吉は明治25年家督を長男茂作に譲った後、明治28年65歳頃から次男嘉吉が開いた野地温泉の発展に力を貸すようになったという。

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