高橋詣治(たかはしけいじ:1904~)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤広喜
弟子:
宮城県遠刈田で修業した木地職人。所謂こけし作者ではない。
明治37年12月19日、高橋勇助、はるの二男として、宮城県柴田郡大河原町字福田に生まれた。明治42年、6歳のとき白石町に移り、白石第一小学校を卒業後、大正7年、15歳のとき遠刈田温泉の北岡仙吉方へ徒弟として入った。前年設立された遠刈田木地細工木工養成所工場の木工教師をしていた佐藤広喜より木地の指導を受けた。大正11年、19歳で徒弟生活を終え、弟子上がりした。この間木地のみでこけしの描彩はしなかったという。大正12年暮れから二年間、宮城県鳴子温泉の高亀 (高橋武蔵)の職人となり、主に遠刈田の木地玩具を作った。当時、北岡商店と高亀とは取引関係があり、その縁で高亀の職人に入ったという。〈こけしの微笑〉「鳴子の作者」に高橋武男談として、「父の弟子職人は今までに14、5人位ではないでしょうか。佐藤乗太郎、高橋詣治、大沼誓、秋山忠市、佐藤養作、佐竹辰吉さんの他は、今たしかな記憶がありません」とある。詣治が鳴子系の工人と思いちがいされる理由はここにある。その後、各地を転々とし昭和5、6年ころより福島県平の佐藤誠の職人となり、昭和20年に誠の工場が爆撃で全焼するまで働いた。誠の工場には職人として、佐野憲一、中島正、猪狩庄平等が働いていた。その後、平で家具の木取りを業としていたが、昭和39年ころ、中気を患い休業、平市内の竹林病院に入院した。その後の消息は不明。文献によっては高橋敬治、高橋敬二とあるが詣治が正しい。
高橋詣治が重要なのは、多くの遠刈田の木地玩具が詣治によって鳴子に移入されたという点である。高亀が鳴子で多様な木地玩具を作り得るのは詣治に負うところが大きい。
〔参考〕
- 中澤鑅太郎:ききがきちょう(昭和45年11月) 中島正の項