秋山忠市(あきやまちゅういち:1913~1984)
系統:鳴子系
師匠:高橋武蔵
弟子:松田昭司/秋山忠男
〔人物〕 大正2年11月29日、木地師秋山忠・やよ江の長男として鳴子に生まる。昭和2年鳴子高等小学校を卒業後、父忠と同級生であった高橋武蔵の弟子となり、2年間木地を修業した。高亀でのおもな仕事は馬の尻替玉を挽くことであったという。兄弟弟子には佐竹辰吉・佐藤乗太郎・佐藤養作がいた。昭和4年頃鬼首の硫黄鉱山会社が北海道での操業を始め、作業員を募集したので応募し、北海道に渡って働いたが、脚気に係り鳴子に戻った。昭和5年18歳ごろよりいたずら程度にこけしも作っが、主に近所の氷屋の手伝いなどをやった。昭和8年より兵役に行き、除隊後、昭和12年ごろより忠の足踏みロクロによる工場(こけし通り)で木地業に従事し、こけしも製作した。昭和18年応召、中支に渡り南京で終戦をむかえた。昭和22年鳴子へ帰り木地業を再開、同時にこけしも再び作り姶めた。妻かうも一時描彩した事がある。こけし通りに面して店があり、蒐集家も訪ねやすく、また蒐集家の依頼に気軽に応じてくれた。佐藤養作に描彩を頼むための木地を挽いてくれたのも忠市であった。弟子には、松田昭司、長男の秋山忠男がいる。昭和59年4月5日没、行年72歳。
左:秋山忠市、右:秋山忠 昭和17年11月 提供:武田利一 昭和17年11月
〔作品〕 父忠の様式を継承してこけしを作り始めたが、初期のこけしは、とびきり大きな頭でおおらかな味の快作であった。
下掲は昭和15年頃の昨、頭は初期のもののように大振りではないが、衒いのない面描は依然維持していて味わいのある作である。戦前の作品数は必ずしも多くない。
〔 21.2cm(昭和15年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
戦後は鄙びた、おっとりしたこけしを作った。横地省三氏のすすめで、一時宮本永吉型を復元したこともあった。昭和42年東京こけし友の会旅行を機会に忠型を作りはじめたが、忠の作風を十分に把握した佳品となり、好評を得た。
〔伝統〕 鳴子系。木地は直蔵系列。こけしは岩太郎系列。高亀で木地を習得したが、こけしは父忠の影響が強い。後継者は長男忠男。
〔参考〕
- 浅賀八重子:秋山忠とその周辺〈こけし手帖・187〉(昭和51年10月)