木地屋文書

木地屋の祖が、文徳天皇第一皇子の惟喬親王であるとする伝説がある。その伝説をふまえて、木地屋の特権を保証する天皇の綸旨、大名からの免許状、また諸国への移動を可能にする往来手形、宗門手形等の文書類を木地屋文書という。

 惟喬親王の母は紀名虎の娘である紀静子。親王の官位は四品、弾正尹。小野宮と号した。
当時は嵯峨天皇の皇女を妻とした藤原良房が宮廷内で権力を持ち、その娘明子を文徳天皇の女御とした。明子は第四皇子の惟仁親王を生んだので、良房は惟仁親王を生後8ヶ月で立太子させた。一方、文徳天皇はせめて惟仁親王が成人に達して皇位を継承できるようになるまでの間は、第一皇子の惟喬親王に一時皇位を継がせようと考えた。しかし、藤原良房は惟仁親王の皇位継承を確実にするべく反対した。そこで惟喬親王は大宰帥、弾正尹、常陸太守、上野太守等の地方官を歴任することとなった。その後、出家して素覚と号し、比叡山山麓の小野の里に隠棲した。政治から遠ざかった親王は、詩歌の世界を楽しむようになり、歌人在原業平を従えて交野ケ原(かたのがはら)にある別荘の渚の院を年ごとに訪れては花盛りの桜をめでていたという。「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 」の在原業平の歌は、渚の院の桜を見て詠んだ歌である。
 こうした史実に対して、惟喬親王には、藤原良房の専横による悲劇の皇子として種々の伝説が伝えられるようになった。次のような木地屋の祖という伝説もその一つである。
 惟喬親王は、宮廷内の権力闘争を逃れ、愛知川上流の小椋谷に移り住んだが、その両辺に居住する住民の貧困さを見て哀れに思い、親王自らが信仰していた法華経の経軸の形からヒントを得て轆轤を考案し、またドングリの殻を見て木椀を作ることを思いついた。それを住民に示し広めると同時にその挽き方を伝授したという。すなわち、惟喬親王が移り住んだとされる小椋谷の蛭谷と君ケ畑(現滋賀県神崎郡永源寺町)の両集落が木地屋の根元であると伝えられた。この伝説では、日本国中の木地師は全てこの両集落から全国各地に分布していったとされる。

惟喬親王御尊像

 この蛭谷、君ケ畑の両集落に鎮座するのが筒井八幡宮と大皇大明神であった。両神社にはそれぞれの神社に所属する氏子(すなわち木地屋)を中心とした全国組織(氏子組織)が存在した。
 しかし、氏子である木地屋は、木地製品製作の原料である原木を伐採し尽すと、原木を調達できる場所に漂移して、新たな場所を作業拠点としなければならない。この様にして木地師達は原木を調達できる日本の各地に分布していくようになった。
 こうした形態で木地業を継続していくためには、新たな土地にトラブルを起こさないようにして木地屋が進出できる仕組みが必要であった。その仕組みが氏子狩制度という木地屋の生業を保証する独特の特権制度である。その制度は、筒井八幡宮と大皇大明神の権威を背景とした氏子神官が、二名で一組の氏子巡回人として全国をまわり、山中に散在しいる木地集落を、ほぽ五~十年間隔で訪問するものであった。氏子巡回人は、名字(小椋姓)帯刀を許され、木地屋の家紋とされる十六辨菊の紋の付いた絵符、提灯、筒井公文所御用と印された木札、印鑑を携行し、身分の証とした。そして氏子巡回人は氏子狩、初穂、直衣途(儀式料)などと称される種々の寄進料を、神社の修理や改築などの名目で徴収した。
 さらに、氏子巡回の際には筒井公文所より依託された惟喬親王縁記、承平5年(935年)の日付のある朱雀天皇の綸旨、織田信長家臣丹羽五郎左衛門長秀が下した免許状などに代表される各種の木地屋文書と称される文書類の写しを配布し、地方在住の木地屋にその写しの文書により「木地屋としての特権」を保証したのであった。
一方でこうした寄進料徴収については氏子巡回神官が氏子駈帳として詳細に記録して筒井八幡宮と大皇大明神に残していたので、その氏子駈帳は年代ごとの木地師集団移動の記録としても貴重な史料となっている。


木地屋文書 (石井眞之助旧蔵) 氏子神官により木地師に与えられた写し。
箱書では、織田と豊臣の年次が誤記で逆になっている。

下掲の朱雀天皇綸旨は鹿間時夫著〈こけし・人・風土〉25頁にも掲載されている。


承平5年(935年)の日付のある朱雀天皇の綸旨 (石井眞之助旧蔵)

近江州愛智郡小椋庄筒井轆轤師職頭之事
称四品小野宮製作被職相
勤之所神妙之由候也専為
器質之統領諸国令山入旨
西者櫓櫂立程東者駒蹄之
通程被免許訖者
天気所候也仍執達如件
承平五年十一月九日 左大丞 
     器杢助

「もっぱら器質の統領として、諸国山入りせしむるの旨、西は櫓櫂の立つほど、東は駒蹄の通うほど免許せられおわんぬ」という有名な一文はここに記されている。これによって木地師は全国の山に入る許可を天皇から受けたとされた。
文末の「天気所候也仍執達如件」は「天皇のお考えはここに示した通りである」という綸旨の常套句であり、承平年間の天皇、すなわち朱雀天皇の綸旨であることを示している。

 下掲末尾の「天気執達如件」も同様で、元亀年間の正親町天皇の綸旨であることを示している。


元亀3年(1572年)の日付のある正親町天皇の綸旨 (石井眞之助旧蔵)

近江国筒井職頭之事 
諸国轆轤師杓子師塗物師
引物師等其職相勤之族末
代無相違可進退旨定訖
故以代々為器質基本兼
亦諸役可免許全公役
可相勤之由依
天気執達如件
元亀三年十一月十一日 左大辨(在判)
   小野宮社務


筒井公文所  織田信長家臣 丹羽五郎左衛門が下した免許状 天正11年(1583年)(石井眞之助旧蔵)

日本国中轆轤師
事従先規如有来
諸役会免除之条商
売不可有異儀者
也依如件
天正十一年六月日 丹羽五郎左衛門(在判)
   江州筒井
     公文所

丹羽五郎左衛門長秀は織田氏の宿老であり、信長に従い天下統一事業に貢献した人物。柴田勝家と並んで織田の双璧と言われたが天正13年に没した。


筒井公文所 豊臣秀吉家臣 増田右衛門が下した免許状  天正15年(1587年)(石井眞之助旧蔵)

従当畑諸商売之事
於惣国中如有来不
可有別儀若違乱之
族在之者可注進可申
付候也依如件
天正十五年十一月十五日 増田右衛門(在判)
   近江国
    筒井
     公文所

増田長盛こと右衛門は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名で豊臣政権五奉行の第三席。

 木地屋文書は、四国、中国、岐阜、信州、東北など日本各地に残されていたが、内容記述はほぼ同一で、蛭谷、君ケ畑の原本を書き写したものが配布されていたことが分かる。ただし、現在では、蛭谷、君ケ畑の原本、すなわち綸旨や免許状などの原本の多くは、後世に作成された偽文書であるとする説が有力である。確かに丹羽五郎左衛門の署名のある織田信長の免許状は、日付が天正11年で、織田信長が命を落とした本能寺の変(天正10年)の翌年になっていたり、また丹羽五郎左衛門自身にしても賤ヶ岳の戦いなどの奔走期であって、この日付の文書には不自然な点もある。しかし一方で、これらの木地屋文書が実効を持っていたのも事実で、多くの木地屋はこの写しの文書を保持することによって、長い間、日本国中八合目以上の原木を自由に伐採することが可能であった。

 こうした木地屋の特権が失われてきたのが江戸の末期であった。原木を求めて漂移する木地師達と、近在に定住する村人達との間に山の木材資源調達に関する争い、すなわち山論事件が各所で起こるようになった。以前は木地屋文書の権威によって木地屋側が優勢であったが、やがて領主や地方官も地元の定住民との関係を重視するようになり、その判定は木地屋にとっては不利なものとなっていった。そこで木地屋も山から下りて、近くの温泉地や村に定住するようになる。

 これは実は極めて大きな変化であった。木地業は本来は、原材料地立地の産業で消費地立地ではない。原材料の重量や量(かさ)は、製品に比べてはるかに大きい。したがって製品にしてから運搬する方が楽だからである。そのため従来は木地屋と消費者が直接接する機会はほとんどなかった。両者の間には限定的な仲介者しか存在せず、むしろ無言貿易(沈黙交易)に近く、貸椀伝説などの生まれ得る素地があった。しかし木地屋がその特権を失って山から下り、木地製品の最終消費者と日常的に接する機会が生まれたということにより、一方で消費者の意向を直接反映させながら木地屋が製品を作る契機が生まれた。そしてようやく温泉地や、祭りの場といった人の多く集まる場所で、需要に合わせて土産物としての玩具などの木地製品が作られる環境が整うことになる。
木地屋が山から下りて温泉地の近くに定住し、木地挽きが消費者の近くで行われるようにならなければ、こけしが生まれることもなかった。

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