菊池清造(きくちせいぞう:1922~2015)
系統:新型・創作, 鳴子系
師匠:
弟子:
鳴子の高亀で戦前一時期(昭和17~19年頃)、また戦後は昭和30年代初期まで新型こけしの描彩者として働いたことがある。
その後、創作こけしを考案描彩したり、鳴子こけしの木地に切り紙で高亀風の面描、胴模様を貼付した切り紙こけし等を製作した。清造自身は木地を挽かない。こけし作者というよりは創作人形、凧絵作者として活動した。
〔人物〕大正11年1月25日宮城県玉造郡鳴子町の新聞販売店経営菊池豹三郎、かめよの男3人、女5人兄弟の長男として生まれた。清造は小学生の頃から剣道が得意で各種大会で優勝していた。昭和22年に東京出身で終戦前に鳴子に疎開に来た松永政子(大正13年5月25日生まれ)と結婚し、2男1女を儲けた。昭和29年、父豹三郎の逝去により家業である新聞販売店を継いだ。昭和30年代まで高亀でこけし描彩を手伝っていたようで、高橋正吾の妻紀恵子が高亀に嫁いできた昭和32年頃には、清造が2階の小部屋で4寸位の木地に描彩していたという。
その後、手先が器用で絵も上手だったので、稼業の新聞販売店経営の傍ら、旅館や商店の依頼を受けて応用こけしの企画・描彩、食事メニューの文字書き、イラスト描き等を無償で行った。包装紙、ポスター、店舗の看板の製作を頼まれる事もあった。現在も清造が描いた大きな達磨絵が「ホテルたきしま」には飾られ、「そば処 小花」には手描きメニューと看板、ポスター等が残されている。「本舗一之坂餅屋」では清造が描いた包装紙を使い続けている。「及川漆器店」は昭和40年代に、粘土の上に和紙を貼り描彩した創作日本人形、お雛さま、凧絵の清造作品を僅かに販売した。及川の主人善和と娘の和花子は清造に弟子入りして、凧絵を修業して店でも販売した。
また、清造は剣道教士5段として上鳴子の鳴武館の館長を務め、小学生と中学生に剣道を教え心身を錬磨して人間育成にも尽力した。弟子は1000人を超えるという。昭和52年には玉造郡剣道連盟会長となり、宮城県剣道連盟、宮城県体育協会、鳴子町長、全日本高齢者剣友会からは功労者として褒賞を受けている。
平成17年に政子が体調を悪くしたので、鳴子を離れ、長女の嫁ぎ先である富山県富山市に夫婦で同居した。政子は平成20年10月20日84才、清造は平成27年7月2日94才で逝去した。
〔作品〕手描きの伝統こけしは確認されていないが、切り絵を貼付した高亀様式のこけし等がある。鳴子様式だけではなく秋保様式の切り絵こけしも残っている。
切り絵こけし〔右から 24.4㎝、30.8㎝、25㎝、24.8㎝ (昭和40年代~50年代前半)(中根巌)〕木地は全て佐藤俊雄
創作人形として下掲のような三段雛などを製作した。
〔参考〕