三春広義

三春広義(みはるひろよし:1948~)

系統:木地山系

師匠:

弟子:

〔人物〕昭和23年11月3日、秋田県秋田県雄勝郡三梨村に生まれる。三春友一とは祖父が兄弟の関係で友一家が本家となる。三春家は元々福島県三春町の出であったが、室町時代の天文2年(1533年)に三梨村下宿に移ってきた。三春家には三春町で使われていた獅子頭が残されている。
広義は昭和41年3月に秋田県立湯沢高等学校を卒業した。高校では菅義偉前総理大臣が同期生であった。学卒後、秋田県酒類卸協同組合に5年半勤務後、昭和48年4月に湯沢雄勝広域市町村圏組合消防本部に採用された。消防署長まで務め平成21年3月に36年間の責任の重い仕事を定年退職した。
 退職後は生涯学習サークルで墨絵を習い、写真撮影に山岳会での活動と悠々自適な生活を楽しんでいる。人望が厚いので地域の行事に駆り出される事が多く、多忙な日々を送っている。
 広義のこけしとの関わりは、井上名兵衛こけしの面描をすることから始まった。本人の記憶では昭和45年頃だと思うとの事であるが、もう少し年代は下がり51年頃かもしれない。三浦友一の仏壇会社が忙しくこけしの面描ができなくなったので、井上周治より顔の描彩を頼まれて眉、目、鼻、口、髪を描いた。間もなく口と髪は周治が描くようになった。これがきっかけとなり、広義も全て自身で描いた作品を発表するようになった。昭和53年頃には周治から轆轤と刃物を譲られ、自宅に設置して木地挽きを練習した。独楽、姫ダルマ、こけしも製作したが、仕事が忙しく時間が取れず、木地挽きは断念した。コンクールに出品の時期だけ集中的に描彩をした。木地は全て井上周治である。
 広義のコンクール出品歴を次の通り、「秋田こけし展」には1回(昭和52年)から25回(平成13年)まで連続で出品している。「全日本こけしコンクール」には20回(昭和53年)から28回(昭和61年)まで2部で出品していて、「全国こけし祭り」には奉納こけしと審査こけしを25回(昭和54年)から31回(昭和60年)まで出品している。また「川連こけし展」(1回から4回までは稲川中学校で開催、5回から10回までは稲川町就業改善センターで開催)に3回(昭和53年8月)から10回(60年8月)まで毎回出品していたが6回(55年)のみ休んでいる。「みちのくこけしまつり」には出品していない。
 これだけ長く活動したベテラン工人であったが、こけし展での出品数は多くは無く、こけし店には全く卸していなかったので、残る作品はかなり少ないと思われる。名古屋こけし会では昭和53年11月例会に6寸と8寸、57年3月例会に8寸、57年9月例会にダルマが何れも少数頒布されている。広義は本人型に対する拘りが強く、木地のフォルムによく注文を付けてやり直しさせる事も多かった。泥臭さより洗練されたきれいなこけしである。また広義は達筆で模様の種類も多かったので井上周治も広義の胴模様を参考にしてバリエーションを増やし、描彩力も豊かに変化した。昭和62年頃から描彩数は減少して、周治の面描も他の工人に頼むようになった。平成13年頃に職務に専念するために筆を断った。広義の墨絵こけしは地元では有名で縁起物とされている。中国、深山の山水画を胴に配した大変手の込んだ作品である。三梨町の桂薗寺(鎌倉時代後期、徳治元年(1306年)に創建された曹洞宗の寺)の住職から依頼されて尺5寸の墨絵こけしを平成26年3月に奉納している。木地は三春文雄で、これが最後のこけし描彩となった。
 轆轤はまだ自宅に据えてあるので、今後の広義型のこけし復活の可能性はある。

三春広義

〔作品〕下掲の図版、向かって右より尺(昭和53年10月)、8寸(昭和53年11月名古屋頒布)、5寸5分(昭和63年11月)、9寸5分(平成13年3月)山水画こけし、8寸(平成13年3月)、8寸(平成13年3月)、8寸(昭和53年12月)佐藤信一と署名。左端は三春友一面描の佐藤信一名義こけし(平成52年1月)であるが広義の描彩とは表情、胴模様が明確に異なっている。

系統〕 木地山系一般型

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