三春友一

三春友一(みはるともかず:1940~)

系統:木地山系

師匠:井上周治

弟子:

2021」〔人物〕昭和15年2月25日に農業、三春圭二、ウタの三人兄弟の長男として秋田県雄勝郡三梨村字下宿に生まれた。祖父の熊治は三梨村の収入役を勤めた。母、ウタは旧姓阿部で雄勝郡皆瀬村藤倉の生まれ、ウタの弟は皆瀬村の農業協同組合の組合長であった。
 昭和33年3月、秋田県立増田高校農業科卒業後、家業の農業を継いだ。昭和41年に農業の傍ら観光地向けに土産物として箱庭の販売を始めた。山の景観を表現した作品で「温泉渓谷」と云う商品名を付け小安温泉、秋の宮温泉、鳴子温泉、湯本温泉、須川温泉で販売された。「温泉渓谷」には小さな新型こけし2本を付ける事が多かった。翌、昭和42年に小安観光ホテル鶴泉荘の社長から箱庭だけでなく、こけしも作って欲しいと依頼がきた。
「木地山こけしのような素朴でめんこいこけしを考えて下さい。三春こけしとして。売店もにぎやかに、明るくなりますよ」と熱望されて、27才の時に隣家の井上周治に木地を依頼しこけしを製作した。井上周治とは、その農作業を手伝うなど父圭二の代からの深い付き合いがあった。こけしは小安観光ホテル鶴泉荘、小安狭ホテル、栗駒ホテル、温泉街の土産物屋で販売され「秋田 稲川 三春吉右衛門こけし」と署名した。吉右衛門は屋号である。農業が閑散期となる冬場しか描彩できないので製作数は多くはないが、昭和47年春まで製作を続けた。こけし店やネットオークション等の中古市場にはほとんど出たことがなく、販路は限定的であったと思われる。昭和46年秋に三春仏壇店を創業して仏壇の製造卸を始めた。47年春には事業拡大して多忙となり、こけし作りは中断した。地元秋田をはじめ、青森、岩手、山形、宮城、福島、新潟、富山、石川の仏壇小売店に販売して出張しての商談は友一が全ておこなった。売上がピークの昭和50年代には社員15名、パートと外注先15名の30人体制で仏壇を受注生産で製造した。三春文雄は学業修了後に三春仏壇店入社して10年程勤めた。
 昭和47年11月より井上周治が井上名兵衛名義でこけしを販売したので、面描のみ友一が手伝った。木地と胴模様は周治である。友一の屋号が吉右衛門、周治の屋号は名兵衛で、木地と胴模様の描彩は周治、面描だけ友一とややこしい。その後、昭和51年の年末年始に周治の木地と胴模様、友一の面描で佐藤信一名義のこけしが僅かに作られた。これは小安温泉の土産屋の主人より作者は複数いた方が良いと提案され、周治の友人である佐藤信一の名を借りて作られたものである。佐藤信一は木地業とは無縁の農家の人だった。昭和52年の正月を最後にその後友一は描彩していない。昭和53年にも佐藤信一名義のこけしが販売されるが、木地は周治、面描と模様は三春広義の手によるもので、51年の信一名義とは全く作風が違う。平成30年に高齢のため会社は廃業した。
その後は健康管理のためにゴルフ三昧の日々で、秋田と岩手、3箇所のゴルフクラブ会員になりラウンドを楽しんでいた。

三春友一

〔作品〕 下掲図版のこけしは、三春友一面描のこけし群。むかって右より7寸(昭和45年頃)「三春吉右エ門こけし」と署名、木地は周治、胴、面描ともに友一、8寸(昭和47年11月・矢田正生氏蔵)「井上名兵衛」名義。木地と胴模様は周治、面描のみ友一、以降のこけしも同様、8寸(47年11月・矢田正生氏蔵)、8寸(48年5月・矢田正生氏蔵)7寸(49年)「井上名兵衛」名義、6寸(昭和52年1月)「佐藤信一」名義。

木地:井上周治 描彩:三春友一

系統」 木地山系一般型

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