川連の漆器店主。
昭和5年刊の〈日本郷土玩具・東の部〉で小椋泰一郎のこけしが佐藤利吉の名儀で紹介された。
仙台の収集家天江富弥が羽後木地山を訪ねた折、小椋久四郎より川連にこけし作者がいることを聞いた。翌昭和4年天江富弥は川連に行ったが、一番先に目についたロクロが利吉の工場であった。そこで利吉にこけしを依頼して帰ったが、利吉は小椋泰一郎にこけしを作らせ、それを天江富弥に送ったことから作者は利吉という誤りが生じた。以後収集家は利吉宛てにこけしの注文を出した。
昭和7年7月に大阪の橘文策が川連を探訪し、作者が泰一郎であることを確認し、〈木形子異報〉でその報告をするまで、泰一郎のこけしは利吉の店が取り次いでいた。実際に取次ぎ事務を行なっていたのは利吉の舎弟長治であったという。以上の経過より考えて、利吉名儀のこけしは昭和8年以前の作ということになり、年代鑑別の一つの指標となる。佐藤利吉自身はこけしと関係はない。
〔 10.1cm(昭和5~7年)(橋本正明)〕
佐藤利吉名義で収集家に送られた小椋泰一郎作