小椋慶次郎

〔人物〕 明治33年9月20日、秋田県雄勝郡大館の木地業小椋運治の次男として生まれる。長兄は小椋啓太郎、弟に与三郎がいた。父運治の兄は養治で、養冶の長男が泰一郎であり、慶次郎と泰一郎は従兄弟にあたる。
長男啓太郎は運治の後を受けて工場を引き継ぎ、慶次郎と与三郎はそれぞれ独立して、慶次郎は川連漆器の木地と塗りを業とし、与三郎は、盆、椀等の木地を製作していた。
慶次郎は大館の古関吉五郎の娘ムラと結婚して良二が生まれたが、昭和35年2月17歳の時、良二はムラの長姉ナミエが嫁いだ柴田鉄蔵の養子となった。
良二の談によると、実父慶次郎は酒も飲まず、大変生真面目な性格だったという。子供の頃、夕食時に勉強しろ勉強しろと口酸っぱく言われるので、すぐ隣の鉄蔵の家によく逃げ出していたらしい。慶次郎は相撲が大好きで蔵前国技館まで何度となく見学に出かけていた。また、亡くなる15年程前からは隠居テレビで大相撲観戦を楽しみにしていたという。
昭和56年3月24日没、行年数え年82歳。

小椋慶次郎  昭和51年4月撮影

〔作品〕従来慶次郎の作品は不明であったが、新潟の古い収集家の収蔵品の中に「小慶」と記入のあるこけしとえじこがあり、それらは現在谷川茂所蔵となっている。この収蔵品の記入には小椋泰一郎が「小泰」、小椋正治が「小正」とあるので、下掲の「小慶」と記入のあるこけしとえじこは小椋慶次郎の作と判定された。慶次郎のこけしは木地山の正統的で古風な作風であり貴重な遺品である。
旧蔵者の新潟の収蔵家は峰村慎吾と推定されるが、峰村慎吾は草創期郷玩界を牽引した人物で、武井武雄著〈日本郷土玩具〉序文には、有坂与太郎、天江富弥と並んで「この道の先輩」との献辞がある。


〔右より 18.8㎝(正末昭初)(谷川茂)、えじこ 6.3㎝(正末昭初)(谷川茂)〕

このこけしとえじこを柴田良二が復元したことがある。

系統〕 木地山系

〔参考〕

  • 中根巌:小椋慶次郎と柴田良二のこと〈木でこ・210〉(平成28年3月)
  • 中根巌:柴田良二の慶次郎・鉄蔵写し〈木でこ・211〉(平成28年5月)
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