アフォーダンス(affordance)とは、アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソン(James Jerome Gibson)によって定義された造語で「環境が動物(人間)に対して与える”意味”」のことをいう。その後、デザインの認知心理学的研究を行っていたドナルド・A・ノーマン(Donald Arthur Norman)がこの言葉を、「物あるいは環境自体が、人間(あるいは動物)に対して特定の知覚や行為を促がすものとして内包している一種の力」として使った。たとえばタンスに付けられた引手の形状は、それ自体がそれを引いて開けるという行為を促している(afford=供与している)というように使った。これはギブソンの定義からは離れているが、アフォーダンスは「物自体の形や色が、人間に対してその物をどのように扱うべきか、その物にどのような感情を抱くべきかを暗示している」、すなわち「物自体が関係性を促がす力を持っている」というノーマン流の解釈によっても広く使われるようになっている。これは、場合によっては完成された物自体が、デザイナーや製作者の意図を超えた反応や感情を人間に促し得ることをも意味している。
今ここで考えるのは、こけしが形態として人間に対してどのような行動や情動を誘発してきたか、言い換えれば、こけし自体がどのような使われ方を促す力を持っていたかという問題である。
こけしの形状、即ち球状の頭部と円筒状の胴体は、極めてシンプルで、かつ象徴性に富んでいるので、それを眺めたり、手に取ったりする人間に対して多様な感情や反応を誘導し得る。こけしは形態として人間に多様な感情や反応の表出をafford(=供与)することが出来たと言い換えてもいい。
人間がこけしから受け止める最も基本的な対応は、本来の目的であった人形に対する感情や反応であり、大人の婦人にもこけしを見せると「おお可愛いぼこさん(這子=こけし)だこと!」という反応をしたという記述がしばしばある。こけしは、ままごと遊びなどで赤子をかたどった人形として用いられるのが本来の姿であった。昭和30年代頃までは下掲写真のように、こけしを抱いて遊ぶ姿がまだ見られたし、東北の農村を訪ねると陽の当たった縁側に大きな藁の嬰児籠(えじこ)があって、その中にごろんとこけしが転がっているといった様子などもよく見られた。幼児の大事な伴侶でもあった。
一方で湯治宿の広い相部屋になっていた座敷などを覗くと、幾組かの家族が佇んでいて、中にはこけしの胴をもって頭部で肩をたたいていたり、腰の下にこけしをあてて体重をかけ、腰の凝りをほぐしている姿をよく見かけることがあった。こけしは健康器具としての効能もaffordしていたと解釈することが出来る。
更にこけし自体が人体形象であることから、木彫の人体像として用いられることもあった。土湯近くの大竹の地蔵堂近辺では、子供が健康で丈夫に育つように、地蔵堂から一体の木彫地蔵を預かり、丈夫に育った場合には預かった木彫地蔵にもう一体を加えて二体にしてお返しする風習があった。このとき加える二体目の地蔵像として古くなった土湯のこけしをお返しに用いることがあった。また、岳温泉の湯神社、熱塩の示現寺子授観音、小野川の瑠璃光薬師如来堂でもこけしを奉納する風習があったが、これらも本来は木彫の小さな仏像や地蔵像、あるいは八葉寺のような五輪塔等を奉納していたものの代用であり、こけしの形象自体がその目的に用い得ることをaffordしていたとも言えるだろう。
秋田県川連では百萬遍念珠繰りが行われているが、その数珠として古くなったこけしが用いられることがある。亡くなった子供の供養と言われている。これもこけしが数珠として作られたわけではなく、木製の使い古されたこけし自体が、より霊能と功徳のある数珠としての使われ方をaffordしていたと言えるのかもしれない。
非常に痛ましい例としては、古くなって黒くなったこけしに金槌代わりに使われたと思われる痕跡のあるものがある。その形が、胴を握って、頭部で物をたたくという行為をaffordしていたといえる。
さらに雛壇に雛人形とともに飾られる場合も多く見られた。収集家が現れてからは収集対象であり、また鑑賞の対象として扱われるようになっている。本来こけしはもてあそび物であったが、さらに飾り物、鑑賞される物としての用いられ方を促す力があった。
戦前に愛知県西尾中学校の教頭、瀬戸女学校の校長をしていた石井眞之助が、東北の女学校の校長宛に「女生徒の家に要らなくなったこけしがあれば集めて送ってほしい」という手紙を送ったところ、多くの古いこけしが集まった。黒くなって描彩もわからなくなったものも多くあった。娘が大事にしていたものだから残っていたというこけしもあるが、人形玩具以外の使われ方をしたと思われるものもあった。下掲の黒こけしはその一部であるが、単なる人形以外のアフォーダンスがあったことによって残されたものも多いだろう。
黒くなったこけし(石井眞之助蒐集)
右から3番目が釘を打ったと思われる打撃痕のあるこけし
こけしは東北の村々で、人形としても、さらに他の何かとしても様々な受け入れられ方をしていた。そして、こけしの形態が、豊富で多様なアフォーダンスを示す力を有していたがゆえに、今日まで命脈を保ち得たと言えるのかもしれない。
〔参考〕
- 小野川瑠璃光薬師如来堂
- 会津高野山八葉寺
- 西田峯吉:こけし風土記(こけしと生活)