小林正吉

小林正吉(こばやししょうきち:1899~)

系統:独立系

師匠:小林鶴次

弟子:

〔人物〕 明治32年4月11日盛岡市油町の赤澤辰之助、タマの四男に生まれる。母タマの妹フクが秋田県仙北生保内の桶屋小林亀治に嫁いでいた縁で、明治40年に亀治、フクと養子縁組をした。明治43年に亀治、フク夫婦に次男友次が誕生。明治45年に尋常小学校を卒業すると、養父亀治の兄弟で秋田市登町で木地業に従事していた小林鶴次について木地を学んだ。大正9年年期があけると湯沢市の木工所で職人として働き、家具関係の木地を挽いた。大正13年生保内に帰って独立開業、家具・農具などを挽いた。大正15年生保内の浅利傳右衛門四女ナヲと結婚し、マサエ、トクの二女を設けた。名古屋の田中舜二の調査〈伊勢こけし・125〉(昭和44年9月)では、昭和12年頃に廃業したというが、戦後も木地を挽き続けていたようで、昭和46年に橋本正明が訪問した際にはロクロも道具も揃っており、こけしの形態を挽いて見せた。いつ頃まで木地を挽いていたか不明。その後の消息もはっきりしない。
なお、養父亀治の二男が、後に米沢で小林吉太郎の職人となり、こけしも製作した小林友次である。


小林正吉 昭和46年8月5日
下掲写真に掲載のこけし(16.3cm)を挽いている

〔作品〕 川口貫一郎が昭和12年に発行した東京こけし會の「こけし作者一覧番付」に羽後角館の作者として小林正吉の名が見える。


こけし番付に載った小林正吉(昭和12年)

ただし、戦後の川口貫一郎はこの情報の出所を記憶しておらず、その経緯は不明であった。川口貫一郎の依頼を受けた田中舜二に小林正吉は、「秋田の小林鶴次のところで働いていた時、仙台の天江富弥が訪ねてきたことがある」と語っていたそうであるから、あるいは天江経由の情報であったかもしれぬ。また、〈こけしと作者〉で橘文策は生保内の小林正吉として紹介し、「私が一見におよんだものは木村弦三氏のコレクションの中であった。イタヤ材を用ひて徳利に目口を描いたようなこけしであった。木地山系と記憶しているが、全くたいしたものでなかった。」と書いている。ただし、正吉自身は木地は挽いたが、全く描彩をしたことはないと言っていた。
昭和46年8月に橋本正明が生保内武蔵野に正吉を訪問した時には、木地のみ挽いてくれた。こけしの木地の形はしっかりしており、ある程度の量を挽いたことは確かである。誰の依頼でこけしの木地を挽き、どこに卸したのかは正吉の記憶がはっきりしない。
当初の紹介が羽後角館であることから平瀬貞吉との関係も考えられる。貞吉は桜皮細工師で造形感覚があり、小林鶴次の木地に描彩したといわれている。ただし貞吉が作ったこけしの数は限られているから、生保内、角館近辺に他にも描彩者が居たかも知れない。

〔16.3cm(昭和46年8月)(橋本正明)〕
〔16.3cm(昭和46年8月)(橋本正明)〕

〔伝統〕 不明であり一応独立系としておく。

〔参考〕 

  • 田中舜二:私信より〈伊勢こけし・125〉(昭和44年9月)
    「私信より」という題は川口貫一郎が、自分が「こけし作者一覧番付」に小林正吉を掲げた経緯を忘れたため、調査を田中舜二に依頼し、その報告の返信を〈伊勢こけし・125〉に掲載したことによる。
  • 植木昭夫コレクション中に下掲のような生保内とされる作り付け小寸(13.2cm)がある。〈こけし辞典〉ではこれを小林正吉の項目に掲げているが、正吉が実際に挽いた木地はかなり上手であり、形も植木蔵とはかなり異なる。植木蔵はおそらく別の工人の作であろう。


〔13.2cm(昭和12年頃)(植木昭夫)〕生保内作者不明

 

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