宮城県名取郡秋保町湯元。飯坂・鳴子と並んで奥州三名湯に数えられ、伊達家の御入湯場であった。
秋保のこけし作者は秋保の大工太田庄之助の長男太田庄吉が最初で、明治27年ごろといわれる。木地は最初に芋沢にいた今野新四郎について学び、また新四郎自身も秋保で3年ほど木地を挽いたという。今野新四郎から学んだ技術は二人挽きであったので、庄吉は明治27年頃に青根に行き、佐藤久吉について足踏みの一人挽きを習得した。庄吉のこけしに関しては、新四郎より久吉の影響が強く遠刈田系であろう。
庄吉の弟子佐藤三蔵および三蔵の弟子菅原庄七、佐藤吉雄兄弟により秋保の型が確立した。その後、青根から佐藤子之助、遠刈田から佐藤治平などが秋保にきているが、こけしに対する顕著な影響は確認できない。
秋保のこけしは、遠刈田系の純粋分化であるが、遠刈田とは独立した歴史をもち、太い胴と数の多い髪飾りなどはっきりした特徴をもっているので、〈こけし辞典〉では秋保亜系として区別した。また、秋保では明治末年から大正中期まで村立職工学校が開かれ、鳴子の遊佐幸太郎、遠刈田の佐藤治平が木地の講師をつとめたこともあるが、盆木地と塗の技術が中心でこけしの指導は行なわれなかったようである。
秋保を産地として最初に紹介した文献は〈こけし這子の話〉で作者は佐藤三蔵と菅原庄七であった。
菅原庄七、山尾武治、佐藤武雄の没後は工人数が減り、こけし産地としては寂しくなっていたが、昭和50年代になって仙台を中心に「手工芸の邑」を作る計画が起こり、建設地を秋保として計画が進んだ結果、昭和63年4月に「秋保工芸の里」がオープンした。
こけし工人では、広井道顕、鈴木明、我妻敏、佐藤武直がこの里に工房を構えた。こけし工人以外にも仙台箪笥、染色、茶器、自然木工芸などの工房もある。(⇒秋保工芸の里地図)