佐藤兵七(さとうひょうしち:1902~1969)
系統:土湯系
師匠:佐藤佐志馬
弟子:
〔人物〕 明治35年6月5日、福島県土湯温泉の佐藤嘉吉・スイの二男に生まれる。嘉吉は土湯の佐藤兵吉の次男で、膽沢為次郎について木地を修業した人。為次郎は兵吉の家の二階にロクロを据えて、足踏みロクロを土湯の工人たちに伝えた。
嘉吉は野地温泉に加藤屋旅館を開業し、夏期には旅館業を営み、冬期は土湯に戻って木地を挽いた。佐藤佐志馬は嘉吉の三男で、兵七の弟にあたる。
兵七は小学校卒業したのち、嘉吉から木地挽きの手ほどきを受けた可能性はあるが、詳細はわからない。
20歳の時に、福島に出て働きながら、約三年間で写真技術を習得した。その後土湯に戻り、昭和4年にアサヒ写真館を開業した。 アサヒ写真館では、いつも土湯のこけしを一通り並べて販売していたので、蒐集家にとっては便利な店でもあり、サロンでもあった。
息子夫婦に写真館の仕事を任せられるようになった昭和41年ころ、弟の佐志馬より指導を受けて自分の楽しみでこけしの製作を始めた。
こけしの製作期間は昭和40年頃から4年ほどである。
昭和44年5月3日没、行年68歳。
蒐集家にとっては、こけし工人として以上に、こけしの世話をしてくれるアサヒ写真館主人としてなじみが深かった。現在のアサヒ写真館当主佐藤一弘は兵七の孫にあたる。
〔作品〕 下の写真のこけしは、昭和41年5月東京こけし友の会の例会で、復活初作として頒布された。復活としたのは以前にも作っていたことがあり、それを復活したという意味であろうが、実際にこれ以前に兵七がこけしを作ったというはっきりした記録はない。
この昭和41年作があるいは兵七の実質的な初作であったかもしれない。
こけしは素直な筆法で穏やかな表情、弟の佐志馬からの影響は、胴の色調以外にほとんど感じられない。アサヒ写真館主として土湯こけしというものを十分に知っていたから、兵七自身の型を最初から作ることが出来たのであろう。
〔系統〕 土湯系
〔参考〕ブログ アサヒ写真館ギャラリー