渡辺作蔵

渡辺作蔵(わたなべさくぞう:1851~1929)

系統:土湯系

師匠:佐久間弥七

弟子:渡辺久吉、渡辺角治

〔人物〕 嘉永4年12月12日、福島県信夫郡土湯村下ノ町28の木地業佐久間弥七・タカの二男に生まれる。戸籍表記は渡邉作藏。〈こけし辞典〉に「上ノ町43に生まる」とあるのは誤り。木地の技術は小さい頃から、祖父亀五郎、父弥七より習った。子供の頃から勉学を好み、山根屋渡邉源五郎(初代)が開いた寺子屋を優等で卒業した。そのため山根屋の後を継いだ岩治郎に見込まれ、明治5年岩治郎、テイの一人娘クラ(安政3年10月20日生)の婿養子となった。「上ノ町43」は山根屋の地番である。久吉、角治、フミ、房吉、忠助、サイ、岩治郎、トヨの五男三女をもうけたが、五男の岩治郎は生後間もなく亡くなった。
久吉、角治、房吉は皆木地を習得した。久吉は明治18年箱根から来た膽澤為次郎について木地を習得、木地も挽いたが、また後年には旅館山根屋を開業した、二男角治は飯坂町湯沢に移り、のちに鯖湖の作者として知られる。房吉は福島の荒物屋岩見家の養子となり、忠助は米国に渡った後メキシコで客死したという。
山根屋は農業が本業であったが、山林27町歩を有する分限であり、作蔵は養蚕や木地業、下駄、天秤棒、鍬の柄の製造などを行った。また漢籍を読むのを好み、人望も厚く長く村会議員などの公職にも就いていた。
俳句などの嗜みもあった。 「梅咲くや 寒くも朝の 起きこころ」
明治9年に作蔵が調査しまとめた地価取調帳が残っている。
作蔵の人柄や生活振りは、佐藤泰平稿〈土湯木でこ考・4〉、土橋慶三〈こけし手帖・54〉「名品こけしとその工人・渡辺作蔵」に詳しい。土橋慶三の岩見房吉からの聞書は貴重である。

地価取調帳 作蔵調査 明治9年

地価取調帳 作蔵調査 明治9年

仕事の合間に子供たちにせがまれて凧の絵をよく描いたという。筆の柄の端を軽くもってさらさらと、達磨、金時、天狗の顔などを描いていたようである。
こけしは子供の頃には作ったというが、その後下駄作りや天秤棒作りが主となってこけしはあまり作らなかったようである。ところが後年になって、45、6歳のころから急に作り出したという。明治30年以降である。売れ行きは非常に良く、一日100本くらい作っていたと房吉は語っていた。木地は当初作蔵自ら挽いていたが、売れ行きが良く、挽き方が間に合わないので長男久吉、三男房吉が専ら挽いて、作蔵が描彩に専念したらしい。凧絵と同じように速筆で、小筆、大筆の二本を使いどんどん描いていたようである。明治40年7月に房吉が福島の岩見家に養子に行った後は、作蔵自らがほぼ晩年まで木地を挽いていたという。
昭和2年に上ノ町の家から夫婦で、長男久吉の旅館山根屋に移り、2年後の昭和4年6月9日に没した。行年79歳。 戒名 大貫院仁獄顕彰居士。

渡邉作蔵、クラ夫妻

渡邉作蔵、クラ夫妻

〔作品〕  作蔵こけしの写真初出文献は天江富弥著の〈こけし這子の話〉である。ただし、その作者名は阿部治助とされていた。天江富弥は何本かの作蔵作を頒布したことがあったようで、仙台の古い蒐集家はそれを求めていた。
武井武雄は〈こけし這子の話〉の記述を受けて、〈日本郷土玩具・東の部〉に、作蔵こけしの写真を掲げ、やはり作者名を阿部治助とした上で「阿部治助の化けて出そうな薄穢い怪奇魅力」と解説を付した。このように昭和初年頃の蒐集家は作蔵のこけしを決して高くは評価していなかった。
昭和17年頃、天江頒布の作蔵こけしを所蔵していた仙台南北堂の佐藤祐彦は、その作者を土湯で追求し、それが渡邉作蔵であることを突き止めていた。ただし、公式に報告はしていない。
昭和18年に福島にいた佐久間貞義は実家のある土湯に戻った折、佐久間弥の物置から、作者不明のこけしを5本ほど見つけた。それを作蔵未亡人クラ、斎藤太治郎、西山勝次に見せたところ「作蔵のこけしに間違いない」ということが判明、同時に〈こけし這子の話〉や〈日本郷土玩具・東の部〉に阿部治助として紹介されたこけしも渡邉作蔵の作であったことがはっきりした。西田峯吉は、この経緯を佐久間貞義から取材し、川口貫一郎主宰東京こけし会の〈こけし・30〉(昭和18年9月)に公表した。

〔20.0cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〔20.0cm(大正末期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

上掲の作品は、〈こけし這子の話〉に写真掲載された天江富弥旧蔵の渡邉作蔵。面描極めて軽妙飄逸、写楽の浮世絵を見るようである。西田峯吉は作蔵こけしを「昔の土湯こけしへの唯一の手懸り」「既に失われた土湯こけしと現代のそれとをつなぐ橋」と位置づけた。鹿間時夫は「目鼻は独特のアルカイックスマイルで洒脱飄軽、温泉の湯気にむせたような色調と相俟って、三春張子や文楽の人形首に見るような江戸風の情味を有する」「枯淡というか神秘というか余情極まりない」と評した。江戸期に会津と福島をつなぐ往還の重要拠点として発達し、廻り舞台を備えた常打ち芝居小屋もあった土湯の、爛熟し凝縮した文化の香りさえ感じられるこけしである。

〔17.6cm(大正末期)(らっここれくしょん)〕
〔17.6cm(大正末期)(らっここれくしょん)〕

渡邉作蔵の作品は、天江富弥頒布のものと、佐久間貞義発見の5本がある。
らっここれくしょんの作蔵は天江頒布の一つではないかと思われる。天江頒布のものは今後さらに発見される可能性はある。
佐久間貞義発見の5本のうち1本は発見の経緯をまとめて公表した西田峯吉へ、2本は鳥居敬一を経て、米浪庄弌、中屋惣舜のもとへ渡った。
これらの製作年代はいづれも大正末期頃と思われる。

〔18.2cm(大正末期)(西田記念館)〕 佐久間貞義発見の内の1本
〔18.2cm(大正末期)(西田記念館)〕 佐久間貞義発見の内の1本

〔右より 16.4cm、17.0cm(大正末期)(佐久間貞義旧蔵)〕
〔右より 16.4cm、17.0cm(大正末期)(佐久間貞義旧蔵)〕

斎藤太治郎に始まる蒐集家を意識した新しい土湯こけしの、はるか以前の作風を残した貴重なこけしで、西田峯吉のいうように確かに昔の土湯こけしへの貴重な手懸りとなるこけしである。

渡邉作蔵の型は、昭和33年に佐久間貞義の勧めで西山憲一が作り、昭和37年11月頃より作蔵三女トヨの次男にあたる渡辺忠蔵が鹿間時夫の勧めにより作り、作蔵の長男久吉の孫にあたる渡辺恒彦が昭和46年より作った。

〔伝統〕 土湯系湊屋系列。 佐久間弥七譲りの湊屋の流れを伝える。

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