伊豆定雄

伊豆定雄(いずさだお:1905~1938)

系統:鳴子系

師匠:安藤齢太郎

弟子:岡崎仁吉

〔人物〕  明治38年10月9日、山形県尾花沢市銀山新畑の農業伊豆庫太郎の長男に生まれる。大正8年高等小学校を卒業後、製炭を行なったり、へらや鍬や鶴嘴の柄等の製造に従事した。大正11年12月と大正13年12月に、区長だった藤屋旅館主人藤要吉の努力で、安藤齢太郎を木地講師とする山形県木地講習会が、林八旅館や、伊豆定雄の家でそれぞれ1ヶ月ほど行なわれた。羽咋芳太郎、佐々木染蔵、鶴利男、野川平一郎、野川平三郎、小関栄その他計10名程が弟子となって、木地挽の技術を習得した。またこの時期に数度、鳴子に研修旅行にも行ったという。一説には鳴子の高橋勘治の弟子押切忠輔も大正末期に銀山で木地指導をしたというが定かではない。
伊豆定雄は技術を身につけて以後、銀山で木地業を続け、ほとんどこけしや玩具を専門に作り続けた。
武井武雄が伊豆定雄に注文を送り、昭和3年12月に入手した作品が〈日本郷土玩具・東の部〉で紹介された。
昭和8、9年ごろ、自家にロクロを3台取り付け、大宮安次郎と遠藤幸三を職人として招き、父の伊豆庫太郎が木取り製板をして、大量に玩具、こけしを作った。昭和11年より山形県北村山郡大石田出身の岡崎仁吉が弟子として入門し、同時に新らたに水車ロクロを取り付けた。定雄はこのごろから病弱で、木地は以後仁吉が挽いて、定雄が描いたが、昭和13年11月26日没した。行年34歳。


伊豆定雄

〔作品〕  伊豆定雄の師匠安藤齢太郎は島根県出身の木地屋であったが、肘折で働いた事もあり、また佐藤丑蔵が齢太郎の助手をしたこともあるので、こけしも作ったようだ。佐々木染蔵や羽咋芳太郎からの聞書きによると、そのこけしは「鼻は垂ればな、口は赤い点二つ。胴は全体を黄色で塗り、赤と青で交互に重ね菊を描く。葉は描かない。」という。蔵王高湯系に近いこけしであったようだ。
定雄は鳴子に研修へも行っているので、師匠の型に加えて、鳴子こけしの影響も強く受けながら独自の型を確立したと思われる。
武井武雄が昭和3年に入手した〈日本郷土玩具・東の部〉掲載の作品は正面菊が二段に描かれたものであった。下掲写真は天江コレクションの伊豆定雄で、天江富弥の店「小芥子洞」で売られたものという。これも二段の正面菊が描かれており、〈日本郷土玩具・東の部〉掲載の作品と同時期あるいはやや先行する時期のものであろう。


〔25.5cm(昭和2年頃)(高橋五郎)〕 天江コレクション

 〈日本郷土玩具・東の部〉では同じ講習会で木地を学んだ羽咋芳太郎も作者として名前を掲げている。武井武雄のもとには、昭和3年12月に伊豆定雄名義と羽咋芳太郎名義のこけしが送られて来たらしい。武井武雄は〈愛蔵こけし図譜〉頒布に付けた「こけし通信・12〉で、伊豆定雄と羽咋芳太郎の違いを下図「銀山 顔の相違」のように示した。

〈愛蔵こけし図譜〉「こけし通信・12」より

羽咋芳太郎名義は眼の描法が異なる。ただし羽咋芳太郎が本当に作ったものか、伊豆定雄が羽咋芳太郎名義として描法を変えて作ったものかはっきりしない。
下掲写真は国府田恵一蔵の5寸8分、〈日本郷土玩具・東の部〉掲載のものに近い時期の作と思われる。胴模様は旭菊を重ねたように見えるが、あるいは安藤齢太郎からの「葉を描かない重ね菊」が変形したものかもしれない。肩は扁平で低く、初期の作風である。この旭菊状の重ね菊は後年の遠藤幸三もよく描いた。但し幸三は葉も描いた。


〔 17.6cm(昭和4、5年頃)(国府田恵一)〕

下掲は深沢要蒐集品の伊豆定雄二種、左の方が古く、木地描彩とも定雄の作であろう。それでも肩は、国府田蔵に比べると丸く高くなっている。右端はその肩がさらに極端に高くなっていて、この手は職人をしていた岡崎仁吉の木地と言われている。
    


〔右より 21.5cm(昭和13年)木地岡崎仁吉 18.2cm(昭和10年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

伊豆定雄の確認されるこけしは昭和3年24歳から、亡くなる昭和13年34歳までの10年間のものである。

〔伝統〕 肘折や蔵王高湯の影響もあるが、基本形としての鳴子系に分類されている。
弟の伊豆護、その長男伊豆徹が伊豆定雄の型を継承した。

〔参考〕

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