岩本善吉

岩本善吉(いわもとぜんきち:1877~1934)

系統:土湯系

師匠:姓名不詳(浅草の木地師)/佐藤嘉吉

弟子:岩本芳蔵

〔人物〕明治10年、栃木県宇都宮市花屋敷に生まる。呉服業山口屋岩本芳蔵二男、幼時親戚の芸妓屋の養子となり18歳まで各種遊芸に熱中した。兄金太郎が病死したので18歳で実家に呼び戻された。25歳で家を出るまでは放蕩で名を売り、「宇都宮の小天狗」と二つ名前で呼ばれていた。吊天井の出入りでは、不覚を取って頭に4寸5分の傷を受け、三日三晩生死の境をさまよった。選挙運動に飛び回っては、反対派の暴力団に襲われ竹槍で左脚に重傷、出初式の梯子乗りでは度々落ちて鳶口の傷は総身四十八ヵ所あったという。トンボ返りの曲芸が得意で、天勝一座で一輪車に乗っていた。特に踊りには秀でていたらしい。
明治34年25歳で家を出て、東京浅草で木工旋盤を習い、椅子や飯台の脚等を挽いた。鹿沼に移り紡績管を挽いて大いに儲け、工場を新築、職人18人、弟子を6人おき、山も買ったが、大正に入り不況のため、事業不振となった。
八人目の妻シゲとの間に子供が次々生まれたので、シゲを入籍した。この妻との間に、花子、鶴子、正春、芳蔵、トメ、松子、忠三郎、力、仲子、竹子の四男六女をもうけたが、男子は芳蔵のみが比較的長く生きた。
大正2年栃木県玉生村に移ったが、このとき一緒に行った父芳蔵が没した。ついで奥会津下野尻の製作所に移ったが、同所閉鎖により芸妓に踊りを教えたりして生活、一年半の後喜多方に移り、盆や椀を挽いた。
なお、橘文策の〈木形子研究〉には、斎藤太治郎談として「加藤旅館の主人はこけしに造詣あり、中ノ沢のこけし作者は同氏について修業したものだ」とある。また〈木形子談叢〉には、「岩本善吉は野地温泉で加藤某にこけしを習った」とも書かれている。善吉は野地温泉加藤屋の佐藤嘉吉と接触があり、これがこけしを作り始める確かな契機だったと思われる。またおそらく時期は大正中期であろう。
大正11年中ノ沢の磯谷茂の山市商店に雇われた。家族は喜多方においていた。このころ中ノ沢には海谷七三郎、磯谷直行がいた。磯谷直行に木地の指導を行った。大正12年家族を呼び寄せ、中ノ沢の家にロクロをすえて、磯谷の仕事をした。大正13年の佐藤豊治による木地講習会に息子芳蔵を参加させた。この講習会には氏家亥一も一緒に参加した。中ノ沢では昭和初期、51歳のころよりこけしを作り始めた。

岩本善吉

善吉が最初にこけしに接したのは野地温泉の加藤屋佐藤嘉吉を通じてであっただろう。後に中ノ沢に移り、当時トンコジイサンと呼ばれた行商人根本藤吉が、土湯より峠を越えて中ノ沢に運びこんだ土湯系こけしや、中ノ沢に来た海谷七三郎、磯谷直行の物を参考にしたと思われる。当初は七三郎の菊を真似てもうまくゆかず、ロクロ線に手書き波線や小さな花様の模様を加えたものを作っていたが、その後須賀川の牡丹園にちなんで牡丹を描くようになったともいう。一説では得意とした入墨にヒントを得たともされる。
善吉は自分のこけしを作るのに熱心で、他人の真似を嫌ったが、一応土湯系の基本形に創意を加えて発展させ、独自の型を完成させた点は高く評価される。
中ノ沢でも奇行はやまず、芝居や踊りがうまく、逆さカッボレは名物であった。このとき足踊りの股にはさむ張子に描いた顔が、善吉こけしの顔の原型ともいわれる。
昭和5、6年ころ桶のロに転居した。昭和9年9月1日心臓病で没した、行年58歳。

逆さカッポレを踊る善吉

鹿間時夫は「善吉の創作力の陰には彼の身にしみついた放蕩三昧の芸、人間味、おどけたビエロの甘悲しい芸人根性等が宿っていた。」と書いた。
弟子は二男芳蔵。人物については〈こけし手帖・3、25〉に掲載された小野洸の研究が詳しい。また人物とこけしとの関連については、〈木の花・13〉に掲載された橋本正明の「境界を逸脱するものー中ノ沢善吉における始原性ー」がある。
一方で、岩本芳蔵の弟子斎藤徳寿は岩本善吉について詳しく追求しており、芳蔵からの聞き書き、既往の文献に加え、地域の関係者からの聞き取り検証なども行なった。その結果、善吉自身が語った経歴や逸話についてはかなりのフィクションがあることを指摘している〈伊勢こけし会だより・106〉(平成14年11月)。鳶口の傷は総身四十八ヵ所あったというが、芳蔵妻女ウメは「善吉の傷は見たことがない」と語っていたそうだ。

自転車競技会で優勝した少年と善吉

〔作品〕善吉のこけしは描かれた表情から「蛸坊主」という愛称で呼ばれ、人気が高かった。残る作品は昭和2年頃から昭和9年までの約9年間のものである。

岩本善吉のこけしが最初に紹介されたのは昭和5年〈日本郷土玩具・東の部〉である、ただしこの時は磯谷茂名義であった。善吉の名前を最初に紹介したのは昭和7年の〈木形子研究・3〉である。
下掲写真は天江富弥旧蔵の善吉であるが、〈日本の郷土玩具・東の部〉で磯谷茂として紹介された武井武雄旧蔵とほぼ同趣の作品である。
善吉のこけしは〈こけし這子の話〉にはまだ掲載されていないから、〈こけし這子の話〉脱稿以後の昭和2~3年ごろの作であろう。現存する善吉の最も古い作例である。

〔22.1cm(大正期)(高橋五郎)〕 天江コレクション
〔22.1cm(昭和初期)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲の鈴木康郎蔵も上掲の天江コレクションとほぼ同年代と思われる。

〔12.0cm(大正期)(鈴木康郎)〕
〔12.0cm(昭和初期)(鈴木康郎)〕


〔 23.0cm (昭和3年頃)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション

上掲3種のように昭和3年以前の作には、前髪と頭頂ロクロの間に赤い半月状の飾りが入らない。

下掲は昭和4年頃の作と思われるが、眼の描き方が所謂「ぽつ目」であり、また両鬢とつん毛が緑で描かれていて珍しい。この頃から前髪と頭頂ロクロの間に赤い半月状の飾りが入る。

{10.3cm(昭和初期)(箕輪新一)〕
〔10.3cm(昭和4年頃)(箕輪新一)〕

〔右より 9.3cm、19.7cm(昭和4~5年)(箕輪新一)〕
〔右より 9.3cm、19.7cm(昭和4~5年)(箕輪新一)〕

〔22.8cm(昭和6年ころ)(北村育夫)〕
〔22.8cm(昭和6年ころ)(北村育夫)〕

下掲の川口貫一郎旧蔵品には、「中ノ沢に行ったとき売れないので善吉がドラム缶に火をたいてどんどんくべていたものを譲り受けてきた」という伝説がある。深沢コレクション中にも同趣の作品がある。


〔20.5cm(昭和7年頃)(川口貫一郎旧蔵)〕

下掲2本は昭和7年ころの作、胴にゴム印で鳥の模様を押している。

〔右より 26.1cm(昭和7年)(橋本正明)、24.8cm(昭和7年)(原)〕
〔右より 26.1cm(昭和7年)(橋本正明)、24.8cm(昭和7年)(原由紀)〕

下掲は昭和6~8年の小寸作り付けであるが、形態表情多様でありそれぞれに趣があって面白い。

{右より 12.9cm(北村育夫)、15.4cm(鈴木康郎)、15.7cm(石井政喜)16.2cm(目黒一三)、9.5cm(橋本正明)〕  昭和6~8年の小寸作り付け
〔右より 12.9cm(北村育夫)、15.4cm(鈴木康郎)、15.7cm(石井政喜)16.2cm(目黒一三)、9.5cm(橋本正明)〕 昭和6~8年の小寸作り付け

善吉の作品の年代変化は、〈木の花・27〉に詳しい。
なお、〈木形子談叢〉に氏家亥一として紹介されたこけしも岩本善吉の作といわれている。

善吉のこけしは異色だったので戦前から人気があり、帝国博物館の溝口三郎は「岩本善吉の蛸坊主のやうなこけしこそ、真に個性と野趣の横溢したもので、彼は玩具に対して深い理解をもち、何か根強いひとつの実感をつかんでゐたやうである〈こけし閑談記録〉」といった。 また〈古計志加々美〉は「彼の作品を見て最初に感ずる事は、其の一種奇妙な味である。然し之を熟視すれば、過大な頭と胴とは不思議に調和して居て破綻が無い。(中略)彼は絵画を好み、生活も奇行に富んで居たと云ふから其の特異な面貌や巧麗な胴文は彼の趣味と性格の一端を表現したものかも知れない。」と書いた。
善吉の作品はグロテスクとして総括される場合が多いが、むしろその表情は 哀愁と諦観の中で彼岸を見つめているような静謐さを感じさせる。

系統〕土湯系中ノ沢亜系。
今日中ノ沢を中心に岩本善吉の作風を継承する作者は多く、また優れた作品も継続して作られている。

一方、中ノ沢の蛸坊主の作者を「中ノ沢系」として独立した系統として扱おうという気運があるが、基本が野地の佐藤嘉吉から継承した土湯系であったことは明らかであり、また系統とはその定義上、二人挽きから一人挽きへの移行期間(明治17~20年頃)に各地の工人の交流と影響関係の中で分岐したカテゴリーを言うので、大正末期あるいは昭和初期に確立し、その作風を継ぐグループが昭和40年以降になって大きな集団になったとしてもそれをこけしの系統分類学上の系統とは呼ばない。例えば、人類は霊長目真猿亜目ヒト上科ヒト科に分類されるが、人類が地球上如何に盛大になったとしても人類目とか人類亜目などに変更されることがないのと同じである(⇒ 系統

〔参考〕

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