我妻勝之助

我妻勝之助(あがつまかつのすけ:1875~1934)

系統:蔵王高湯系

師匠:佐藤周治郎

弟子:岡崎長次郎/遠藤幸三

〔人物〕明治8年(推定)、宮城県刈田郡宮村遠刈田小妻坂に生まる。明治24年17歳のとき、遠刈田新地の佐藤周治郎について木地を習得。周治郎とともに大宮源ハエ揚の職人として働いた。
明治27年20歳のとき木材の重量を測るための分銅を足に落として負傷、これを契機に蔵王高湯に移り庵寺の下、旅館高見屋の裏手に店を持った。しかし場所が悪くて繁昌せず、万屋斎藤藤右衛門の職人となって働いた。この年、稲村長次郎(岡崎長次郎)が弟子となった。その後、蔵玉高湯高見屋の裏手で独立開業したが、しばしば万屋の職人としても働いた。
大正6年に県の木地講習会が蔵王高湯で開催された時には、これに参加した。
大正4~6年には滑津の佐藤文治郎に要請されて冬期間のみ滑津で木地を挽いた。大正8年ころ遠刈田の吉田畯治の工場で働いていた畯治の甥吉田仁一郎が、蔵王高湯に来て万屋で働くようになった。
大正11年頃に万屋の店の手伝いに来ていた遠藤幸三に木地を教えた。大宮安次郎もこのころ夏季には万屋で木地を挽いていた。
昭和5年頃、橘文策は及位の佐藤文六からの情報で勝之助の存在を知り〈 木形子研究・9〉で作者として紹介した。昭和7年の木形子洞頒布に取り上げられて蒐集界に知られるようになった。
昭和9年9月30日没、行年60歳。
昭和10年7月刊の〈 木形子談叢〉で新作者紹介に掲載されたが、このときすでに勝之助は亡くなっていた。
 
〔作品〕下掲の作品は、菅野新一が〈蔵王東の木ぼこ〉で紹介した作者不詳で大正4~6年頃の「滑津のでくのぼう」、後に久松保夫蔵となり昭和53年に神奈川県立博物館で開催された「こけし古名品展」に出品された。〈こけし古作図譜〉では、掲載リストで「我妻勝之助?」とされている。一方、後藤昭信は〈こけし手帖・233〉で滑津の木地業を精査し、これを日下源三郎作と推定した。ただし、この判断には日下源三郎の生年を〈こけし辞典〉をもとに明治16年ころとし、大正初年の30代前半の作ということが前提となるが、〈山形のこけし〉で日下の生年は明治38年7月8日と訂正されているので、製作が大正4年であれば数え年11歳ということになり、冬季滑津に行って木地に携わり、このこけしを作るのには無理がある。やはり、明治8年生まれで40歳頃の我妻勝之助が作ったと見る方が自然であろう。


〔 21.8cm(大正初期)(箕輪新一)〕

こけし蒐集界に直接渡った作品としては、橘文策の依頼で昭和5年ごろより復活した作品が大部分ではあるが、橘以前に古い蒐集家が入手していたと言われるものがある。下掲は北村勝史旧蔵で、〈木の花・28〉では正末昭初の作と推定された。以後の垂れ鼻とは異なる猫鼻の面描で、異色の作である。


〔30.3cm(推定:正末昭初)(北村勝史旧蔵)〕

下掲は〈こけしと作者〉掲載の勝之助図版、 木形子洞頒布前に橘文策が取り寄せたもので昭和5年頃の作であろう。中央の大寸の型にはよだれかけも描かれていて、蔵王高湯の古い様式を伝えている。

下掲左端は、梅林新市旧蔵で胴底に「堀田高湯 昭和5年5月6日 梅林」の記入がある。おそらく上掲の橘入手と同じ時期の作であろう。
初期のものには桜崩しの胴模様が多くあったようであるが、橘文策は重ね菊模様のものの方を評価したので 昭和7年の木形子洞頒布ではすべて重ね菊となっていた。


〔右より 12.3cm(昭和7年)(中屋惣舜旧蔵)、24.5cm(昭和7年)(横山五郎旧蔵)、18.0cm(昭和5年5月)(中屋惣舜旧蔵)〕

本格的な復活後の製作期間は昭和5年ころから9年までの5年間であるが、現存の勝之助の大部分は昭和7年木形子洞頒布のものである。黒頭に楕円形の赤い飾りをつけており、胴には赤青紫を用いて甘美な菊花を描いた。木形子洞頒布以前の作には手絡頭もあり、黒頭であっても赤い楕円形の飾りとともに中削を加えているので鑑別できる。木地の仕上げの華麗さ、描彩の健筆振りは蔵王高湯系随一であり、艶麗濃厚な作風の完成度の高いこけしであった。
 

〔伝統〕蔵王高湯系万屋
万屋時代には弟子の岡崎長次郎、遠藤幸三のほかにも、師弟関係ではないが影響を受けた工人は多い。大宮安次郎、吉田仁一郎なども何らかの影響を受けている。
大宮正安、梅木直美などが我妻勝之助型を復元した。

〔参考〕

  • 菅野新一:滑津の木地屋とでくのぼう〈蔵王東のきぼこ〉(昭和17年12月)
  • こけしの会同人:連載覚書(27)勝之助こけし〈木の花・28〉(昭和56年5月)
  • 箕輪新一:万屋〈木の花・28〉(昭和56年5月)
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