坂下隆男

坂下隆男(さかしたたかお:1944~2014)

系統:南部系

師匠:坂下隆蔵/君塚木工所

弟子:

〔人物〕  昭和19年12月16日、岩手県宮古市末広町の木地業坂下隆蔵、テツの4人兄弟の次男に生まれる。長男に秀雄がいたが木地を業とする気持ちはなく、隆蔵は次男の隆男に木地の修業を勧めた。ただ隆蔵は戦後間もなく木工所で親指を失っていたため、直接隆男に技術を指導することはできなかった。そこで盛岡の松田清次郎の下で父権太郎と兄弟弟子であった煤孫茂吉の長男実太郎につけて木地を学ばせようと考えたが、実太郎の返事がはっきりしなかったので、花巻市の君塚木工所に入れることにした。隆男は昭和35年3月宮古第一中学校卒業後にこの君塚木工所に入り、見習い期間3年の約束で木地技術の修得を行なった。見習い期間終了後も継続して昭和45年まで君塚木工所で働き、主に漆器類の木地下を挽いた。君塚木工所には佐藤英吉の次男忠雄が先輩としていたので、仕事の合間には佐藤英吉の家を訪れる事もしばしばあった。英吉、忠雄との交流が隆男のこけしへの関心の一つの契機となった。昭和40年花巻で結婚し、新居を構えたが義父が佐藤一夫と知己の間柄であったため、一夫からもこけしに対する刺激を受けることになった。
昭和45年2月に君塚木工所を辞して、宮古に家屋を新築して移り、4月より父隆蔵の助言を受けながらこけしの製作を始めた。また昭和46年秋より足立ベニヤ(株)(現・ホクヨープライウッド(株))の宮古工場に勤めるようになり、家業の木地業は休日のみの活動となった。
頒布はおそらく伊勢こけし会の昭和45年11月が最初であり、翌46年の伊勢こけし会誌〈こけし・133〉に解説が掲載された。昭和46年刊の〈こけし辞典〉では、隆蔵の項目中に「最近、息子の隆男が製作開始した。」と紹介された。
こけしは細々と作っていたが、昭和62年より平成7年までは足立ベニヤ(株)の東京工場へ転勤となり木地業は休業した。平成8年に宮古工場に転勤となり帰郷出来、木地業を復活してこけしも作りも再開したが、三交替制の勤務のため量産は利かなかった。平成12年頃までは製作したがそれ以降の製作はかぎられたものとなった。やがて体調も思わしくなくなり、休業してロクロも処分した。 平成23年の東日本大震災では自宅は幸い津波の来る地域ではなかったので被害を免れた。
平成26年12月30日に没した、行年71歳。   
伝統を絶やしたくないと云う事で妻女のみつ子および長男の隆一は、平成30年11月に田山和文を訪ね、田山が坂下型の継承と製作をおこなうことの合意を行なった。

坂下隆男 昭和45年 撮影:深瀬秀

坂下隆男夫妻 昭和49年5月 撮影:村上穆


坂下夫妻 昭和55年東京こけし友の会旅行会 撮影:武田利一

〔作品〕 隆男が作るこけしは祖父権太郎の型で、胴上部に赤いよだれ掛けを描く様式が基本形である。この型は、権太郎が浄土が浜に祭られる地蔵尊を写したものという。
変わり型のよだれ掛けとして紺や緑の顔料に花模様をつけたものも製作した。これらも権太郎譲りである。


〔右より、18.6㎝(昭和46年6月)、18.4㎝(昭和49年9月)、18.3㎝(平成9年7月)、18.5㎝(平成10年3月)、18.4㎝、18.3㎝、15.5㎝(平成10年5月)(中根巌)〕

シンプルな赤の涎掛けは、よき時代の権太郎からの継承であり、簡素ではあるが明確な意志を感じさせるこけしである。  


〔 18.0cm(平成9年)(高井佐寿)〕


〔9.5cm(平成18年)(橋本正明)〕

〔伝統〕 南部系

〔参考〕

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