佐藤栄治(さとうえいじ:1862~1926)
系統:弥治郎系
師匠:佐藤東吉/佐藤周治郎
弟子:佐藤伝内/佐藤勘内/小倉嘉吉/新山久治郎/高梨栄五郎
〔人物〕文久2年ころ弥治郎に生まる。父は横川木地師小椋栄三郎の弟で弥治郎に婿にきた佐藤熊治、母は佐藤東吉の姉なみで熊治の代に別家して独立した。幼名を熊太郎という。明治2年の凶作で熊治、なみは生活に困り子供を残して北海道へ渡ったので、熊太郎は叔父東吉、とよ夫婦に育てられた。熊治の空家には鎌先の鈴木屋からきた木挽きで東吉のお気に入りの芳松(由蔵とする文献もあるが芳松が正しい)が入り、太蔵と改名してこの家を継いだ。
東吉は自分の子供に死なれていたので熊太郎を養子とし、栄治の名で家督の後継とした。 戸籍表記は榮治。栄治は養父東吉について二人挽きを修業、明治12年19歳で遠刈田新地佐藤久蔵長女ふよと結婚した。明治14年に長男伝内、明治16年には二男勘内が生まれた。
明治20年従弟の常三郎(後に太蔵の養子となった幸太)が青根で佐藤茂吉について一人挽きを習得して帰ると、栄治も遠刈田の義理の従兄(伯父小椋栄三郎の娘里うの嫁ぎ先)周治郎の指導を受けて一人挽き技術を身につけた。弥治郎の自家には義兄(妻ふよの兄)久吉の手助けをうけて足踏ロクロを設置し、さっそく弥治郎の小倉嘉吉、新山久治郎、高梨栄五郎らに技術を伝えた。幸太、栄治のもたらした新技術はこけしにも一大変革を与え、手描き中心だったこけしに巻絵をもちいた手法を発展しさせ、弥治郎系こけしの確立に繋がった。
東吉は明治33年に家督を栄治に譲り隠居となり、明治37年に亡くなった。
栄治と遠刈田の佐藤久吉は義理の兄弟でもあり、栄治のもとには久吉の三男久蔵(のちの白川久蔵)なども手伝いに来ていたことがあり、遠刈田との親しい関係は続けられた。
栄治とふよの間に、伝内(戸籍表記は傳内)、勘内、長女某、まつ江、五月、好蔵の四男二女がうまれた。長女は夭逝したが伝内ほかは成育し、特に伝内、勘内はこけし作者として活躍した。
明治40年に蔦作蔵が勘内の弟子となったが勘内の仕事場は本家の栄治のところにあったので、勘内が他出した際には栄治が作蔵を可愛がって指導をした。
長男伝内・次男勘内が一人前になって働くようになると、栄治はほとんどロクロから離れて村の西区の区長を30年に渡り勤め、宮城県知事より表彰を受けた。福徳円満の人格者で仏区長と呼ばれていたという。栄治によって始まる弥治郎系の一系譜を栄治系列と呼んでいる。大正15年1月28日(大正14年旧12月5日)弥治郎にて没した。行年65歳。
〔作品〕栄治のこけしは現存していないが、蔦作蔵の記憶によれば、墨のほか赤・青二色の折衷式で、胴の襟の左右に菖蒲を配し、頭の模様は紅葉に似せて描いていたといわれる。
また栄治の養母とよ、妻のふよも盛んにこけしの絵付けをしていたようで、息子伝内がふよのおぼこ、とよのおぼことして、昔を思い出して作ったこけしがある。
〔伝統〕弥治郎系栄治系列の創始者
〔参考〕
- 菅野新一:「三住の木地屋」〈山村に生きる人々〉(昭和36年4月)(〈こけし手帖・36〉に再掲)
- 橋本正明:佐藤マケの再編成を中心とした「佐藤東吉の木地政策」〈木でこ・66〉
- 蔦作蔵/西田峯吉:弥治郎と小野川―蔦作蔵の手記 (昭和48年)自費出版