野口小蘋

弘化4年、徳島出身の古医方松邨春岱の長女として大坂難波生まれた。
8歳のときに四条派の石垣東山に入門、16歳の時、絵の修行のため父春岱とともに北陸を数ヶ月にわたり巡遊、このとき福井藩の絵師島田雪谷から画の手解きを受けた。
明治期から大正期にかけて南画家として活躍し、奥原晴湖とともに明治の女流南画家の双璧と称された。
女性初の帝室技芸員となり、正八位に叙せられた。また文展審査員も務めた。
博文館発行野口勝一編の〈画法自在〉は野口小蘋の絵を手本として構成されている。
大正6年2月没、行年71歳。

秋田県滝ノ原でこけしを作り、当時日本一ともてはやされた伊藤儀一郎が、〈画法自在〉の野口小蘋の絵を敷き写してその胴模様を描いていたことがわかり、大きな問題となった。
これを最初に指摘したのは高久田脩司で、昭和14年の東京こけし会〈こけし・4〉に以下のように報告した。
「あの傑れた儀一郎こけしの胴模様 ー武井氏は『模様といふより最早絵である』と云って居られるがー は実は明治画壇における南画の第一流の大家であり、帝国技芸員でもあった野口小蘋女史の絵に據ったものが多いと云ば成程と首肯される方も少なからうと思ふ。」その手本となったものは「儀一郎が嫂に譲って貰って使用してゐるのであって、明治31年3月2日印刷博文館発行野口勝一編〈畫法自在〉(日用百科全書中第27編)中所載の小蘋女史筆の絵である」とあり、その本を調べたところ「上に紙を当てて鉛筆で写したものと見え、強く上から押した痕が歴然と残って居った」。また村長、病院長、郵便局長所蔵のこけしを確認したところ、村長の原画は確認できなかったが、「後者二本は(小蘋の原画と)そっくり其儘の芙蓉と菊であった。」
その後、儀一郎のこけしは「新型、あるいは創作こけしのはしり」とするもの、依然支持を続け「過小に評価すべきものではない」とするもの、こけし界の評価は二分した。


〔右より 31.0cm(大正末期)山茶花、39.0cm(昭和6年)芙蓉(石井眞之助旧蔵)〕

上掲写真は石井眞之助旧蔵の伊藤儀一郎2本、特に右端は小椋久四郎が持っていたものを譲り受けたと伝えられ、大正期の儀一郎である。この2本の胴模様、山茶花と芙蓉は、下掲の野口小蘋の粉本をほぼ正確に写している。


野口小蘋〈画法自在〉 山茶花と芙蓉

〔参考〕  産地風影 小安

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