煤孫実太郎

煤孫実太郎(すすまごじつたろう:1908~1984)

系統:南部系

師匠:煤孫茂吉

弟子:煤孫盛造

〔人物〕  明治41年10月9日、岩手県稗貫郡花巻町の木地業煤孫茂吉・タケの長男に生まれる。戸籍表記は實太郎。大正12年15才で花巻高等小学校を卒業、その年の9月頃より父茂吉に就いて足踏みロクロで木地の修業を開始した。昭和6年に足踏みから動力ロクロに切り替えた。キナキナは大正12年に修業を始めた当初から製作している。昭和23年に伊藤要之助三女サナと結婚。
昭和26年ころまでは、茂吉宛に来た注文には、茂吉と実太郎が二人で製作していたので、茂吉名義のキナキナにも実太郎が製作したものがかなり混じっている。
木地の形態からだけで製作者がいずれかを特定するのはほぼ不可能である。
深沢要の〈こけしの微笑〉(昭和13年8月)の「こけし作者一覧表」の中に花巻きなきなの作者として煤孫茂吉と並んで実太郎の名が見える。これが作者としての実太郎の初出である。
橘文策の〈こけしざんまい〉にはハズミ車応用足踏みロクロを挽く煤孫実太郎の写真が掲載されている。昭和33年に父茂吉が亡くなって以降も、実太郎は花巻市大町の自宅で木地業を続けた。
父茂吉から、父の師匠達すなわち台温泉の鎌田千代松のことや、盛岡の安保彌次郎、松田清次郎のことを詳しく聞いていて記憶していた。もともと学問好きで博学、そして民俗学にも興味を持っていたので、実太郎の記憶は正確であり、また内容も豊富であったためこけし界への貴重な情報源となった。
東京こけし友の会に出席して、会場で鎌田千代松についての講演を行ったこともあった。
また郷土から出た宮沢賢治にも思いを寄せ「宮沢賢治友の会」とも関係があった。
昭和59年8月24日没、行年77歳。
〈こけし手帖・283〉巻頭に西田峯吉による追悼記事が掲載された。


煤孫実太郎 昭和25年 撮影:森亮介 

煤孫実太郎 昭和42年
煤孫実太郎 昭和42年 撮影:橋本正明 

〔作品〕 作品は父茂吉の型を忠実に継承しもの。ただ材質と仕上げの美しさには実太郎の工夫があった。
西田峯吉は次のように書いている。「いままで煤孫さんが作ったキナキナのうちで、木目が目立つのは、さくら、けやき、やまなし、たも、ぶな、などである。また色が美しいのは、やまが、かば、であり、磨きをかけた木肌が美しいのは、こさんばら、うめ、いたや、などである。」

〔右より 18.2cm(昭和42年)、23.1cm(昭和40年)、10.1cm(昭和44年)(橋本正明)〕
〔右より 18.2cm(昭和42年)、23.1cm(昭和40年)、10.1cm(昭和44年)(橋本正明)〕

実太郎の作品はいづれも父茂吉の型を引き継いだものだが、その原型をたどれば、上の写真の左端は盛岡安保・松田の正統的なキナキナを継承したもの、中央の帯付きのものは台温泉の鎌田千代松からの伝承、右端の帯無しはそのバリエーションであろう。

なお、美術出版社から出た「こけしガイド」(昭和33年)には帯付きのキナキナとそのキナキナに描彩を施したものの2本が掲載されていた。この描彩は花巻在の高山きみという女性がおこなっていたもの。観光土産用の工夫であろうが、伝統的なものではない。

系統〕  南部系 
鎌田千代松-煤孫茂吉-煤孫実太郎と続いた帯付きキナキナ(上の写真中央)の系譜と、松田清次郎-煤孫茂吉-煤孫実太郎と続いたおしゃぶりのキナキナ(上の写真の左)の系譜がある。
後継者に煤孫盛造がいる。

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