煤孫茂吉

煤孫茂吉(すすまごもきち:1878~1957)

系統:南部系

師匠:鎌田千代吉/松田清次郎

弟子:煤孫實太郎/安保一郎/松田徳太郎

〔人物〕  明治11年8月5日、岩手県稗貫郡花巻川口町大字里の農業煤孫藤次郎・ナカの次男に生まれる。5、6歳の頃より祖父の生家であった台温泉の小瀬川金次郎宅で養育され、明治21年11歳で小学校を卒業すると、その向かい合わせに住んでいた木地屋鎌田千代松(通称千代吉あるいは千代治)について小物挽きの技術を習得した。これは茂吉の祖父長次郎と千代松の父甚兵衛とが昵懇の間柄だったことによる。
千代松のもとではキナキナの製作までは修業したが、描彩のあるこけしの製作までは習わなかった。ある事情で鎌田千代松のもとを去り、明治24年14歳の時、盛岡穀町の木地屋松田清次郎のもとに行って修業を続けた。松田清次郎は明治3年生まれで8歳年長であり、安保彌市郎、彌次郎父子について木地を習得していた。当初は二人挽きであったが、松田清次郎と煤孫茂吉は、丁度明治23年に開通した日本鉄道の作業場で西洋旋盤ロクロを見て刺激を受け、その仕組みを応用したハズミ車応用足踏みロクロを考案した。松田清次郎からは小物だけではなく、横木による大物挽きの技術も学ぶことが出来た。
キナキナもたくさん作り、明治27年の日清戦争の後には、石油箱2杯分のキナキナを東京へ送ったと話していた。若くして亡くなった安保彌次郎の代りにその長男一郎に木地を伝えたのも、また同じく夭折した松田清次郎の代りにその弟松田徳太郎に木地教えたのも茂吉であった。
明治33年23歳の時、花巻に戻って独立開業し、また木村熊五郎二女タケと結婚した。4男4女をもうけ、長男實太郎が木地業を継いだ。
キナキナも需要に応じて製作し、〈日本郷土玩具・東の部〉で童画家であった著者の武井武雄から「白昼夢の華麗さを心憎いまでに幻出している」と賞賛された。戦後も昭和26年頃までロクロに上がっていた。昭和32年1月26日没、行年80歳。

煤孫茂吉 (〈こけし・人・風土〉水谷泰永撮影)
煤孫茂吉 (〈こけし・人・風土〉水谷泰永撮影)

〔作品〕 茂吉の作るキナキナは大別して二種ある。一つは下の図のように盛岡の安保、松田両家が作るキナキナと同種のもの、寸法は3~4寸が多い。これは子供のおしゃぶりとして手で握って頭部を口に入れるのに適当な寸法であり、南部のキナキナとして最も正統的な形であろう。

〔10.0cm(昭和11年)(橋本正明)〕
〔10.0cm(昭和9年)(橋本正明)〕

もう一つは、7~8寸で頭はやや大きく、下の写真のように胴に帯が入っているもの、無彩ではあるが、やや人形化の進んだ形態である。この形態が、盛岡に行く前に台温泉で鎌田千代松より継承したものと言われているが、どの経度の継承なのかはっきり分からない。
最初に煤孫茂吉を紹介した〈日本郷土玩具・東の部〉にも既にこの帯のこけしは紹介されている。

{25.1cm(昭和14年)(深沢コレクション)〕
{25.1cm(昭和14年)(深沢コレクション)〕

戦後まで作り続けていたので茂吉作というキナキナは少なくないが、長男の實太郎も大正12年頃より、木地を挽き始めており、キナキナも作っていた。そしてこの時期の作品は殆どが茂吉名義で蒐集家に渡ってるので、實太郎作も混入していて両者の鑑別は難しく不可能である。
いづれにしても、こけしの蒐集が始まった時点において、キナキナという一つの範疇を確立させたという意味で、煤孫茂吉は重要な工人であった。

系統〕 南部系

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