佐藤秀一(遠刈田)

佐藤秀一(さとうしゅういち:1914~1944)

系統:遠刈田系

師匠:佐藤直助

弟子:

〔人物〕 大正3年6月21日、佐藤直助、つるよの二男として遠刈田新地に生まれる。母つるよは秀一のほか三女を生んだが、大正4年に39歳で亡くなった。昭和3年遠刈田高等小学校卒業後、見習工として北岡工場へ入所、父直助につき木地挽を修業した。菅野新一著〈蔵王東のきぼこ〉によるとこけしは昭和5、6年から描彩を始め、北岡の店に出したという。昭和8年ころには一人前の職人として北岡工場で働いた。秀一の名前は〈木形子異報・10〉で橘文策により紹介され、昭和12年大阪高島屋から橘文策を通しての頒布があった。また〈木形子・4〉でこけしの写真が紹介された。妻ハルヨとの間に英太郎、捷二が生まれた。昭和15年に従兄弟の護と共に最後まで働いていた北岡工場を去り、東北振興㈱発電所の設計課で働くようになった。勤務の傍ら自宅で少しずつ足踏ロクロでこけしの注文をさばいていた。昭和18年応召、翌昭和19年8月22日、ビルマで戦死した。行年31歳。

佐藤秀一

〔作品〕下掲写真は〈木形子異報・4〉の第15図で右端が秀一の作である。昭和12年に頒布された頃の作と思われる。中央二本は直助の同時期の作。直助は昭和12年11月に亡くなっているので最晩年の作である。秀一の面描等を見るとこの直助晩年作を写して製作をしていたことがわかる。


〈木形子異報・4〉(昭和13年10月発行) 第15図

下掲5本は深沢要蒐集品、深沢要は昭和13年4月に遠刈田新地を訪ねて〈こけしの微笑〉に「新地の今昔」という一文を記している。その中で直助の死に触れたあと「嗣子佐藤秀一も又こけしを作っては人並み勝れたうまさがある。だが今のところ器用任せなので、どこか緊張力が足りない。かりに眉と目の筆の走り方だけを見ても、父のものと比べると、そこに大きな隔たりがあることが分かるのであ。当然今後の勉強に待たなければならない。秀一は当年25歳である。」と書いている。下掲5本はそのときに入手したこけしである。しかし今になってみると、〈木形子〉掲載の作に比べてこの5本は、既に十分に手馴れてきており、また衒いのない筆致で描かれ、清新の気が横溢した魅力的な作品と思える。
昭和15年に転業して余暇にしかこけしは作らず、また昭和18年に応召となって若くして戦死したため残る作品は多くない。

 


〔右より 14.9cm、15.2cm、21.2cm、15.2cm、9.2cm(昭和13年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下掲は昭和14年頃の作、面描は整って落ち着いた表情となっており、秀一の完成期の作である。


〔右より 24.5cm、18.0cm(昭和14年)(高井佐寿)〕

松之進の四男佐藤友晴とともに佐藤秀一は次代の遠刈田を支えるべき工人であったが、ともに若くして亡くなったのは残念であった。友晴と秀一がいたら戦後遠刈田のこけしの世界はかなり違った歴史を辿っていたかもしれない。 

〔伝統〕遠刈田系周治郎系列 長男の佐藤英太郎は直助の型を継承、直助ー秀一ー英太郎と続く伝統の堅牢さを示している。

〔参考〕

  • 菅野新一:蔵王東のきぼこ(昭和17年8月)(昭和45年2月復刻 未来社)
[`evernote` not found]