田中敦夫

田中敦夫(たなかあつお:1938~2003)

系統:蔵王高湯系

師匠:斎藤源吉

弟子:

〔人物〕 昭和13年3月6日、米沢市宇綱木の農業田中定男の五男に生まれる。昭和29年3月中学校を卒業後、米沢の機業仲買店で働き、また武田信吉の下で5ヶ月ほど働いた。小野川の岡崎直志の工場でもしばらく働いたというが詳細は分からない。昭和32年11月より蔵王高湯の斎藤源吉に弟子入りして、正式に木地の修業を始めた。昭和33年よりこけし製作を開始。昭和37年4月年期明けし、同38年11月より独立開業した。昭和39年12月師源吉が死亡後も緑屋にとどまり、こけしの製作を続けた。昭和40年から源吉が作っていた斎藤松治型の製作も行うようになった。初出の文献は〈こけしガイド〉。
昭和49年4月に、蔵王温泉字川原にて独立し、田中こけし屋を開業した。
蔵王温泉でのこけし製作を長く守っていたが、平成15年12月11日に没した、行年66歳。
なお、蔵王の岡崎幾雄のもとで職人をし、米沢で独立した田中恵治は甥にあたる。

田中敦夫

〔作品〕初期の作は、師匠斉藤源吉のその当時の作品を忠実に継承した作風であった。昭和40年頃から製作を始めた斎藤松治型も、松治のこけしを写すものではなく、源吉が自分流に作った松治型を敦夫が写したものだった。
ただこの時期の作品は、源吉の気品も維持していて、緊張感ある作品だった。
源吉がなくなった後は、次第に田中敦夫の筆癖があらわれるようになり、敦夫調の面描に変わって行った。
下掲の尺はまだ、源吉の気品を保っていた時期の作品である。
 


〔30.3cm(昭和38年頃)(高井佐寿)〕

なお、胴底の署名は「蔵王 田中敦夫」といれるが、「蔵」の字が昭和34年までは楷書、昭和35年以降は崩し字になるという。

〔伝統〕蔵王高湯系 緑屋

 

〔参考〕

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