庄司惣五郎

庄司惣五郎(しょうじそうごろう:1854~1902)

系統:作並系

師匠:小松藤右衛門

弟子:今野新四郎

安政元年2月27日宮城県宮城郡愛子村の小松東十郎の五男に生まれる。兄に六兵衛、今朝右衛門、養蔵がいた。小松藤右衛門(戸籍名:今朝右衛門)は作並で岩松直助について木地を学んだ。惣五郎は兄の藤右衛門について木地を学んだ。明治7年2月惣五郎は名取郡茂庭村の庄司東左衛門、つきの二女くめの結婚し、庄司家の婿となった。兄の養蔵も庄司東左衛門の長女つきと結婚し庄司家の養子となって家督を継いでいた。
庄司家に来た惣五郎は屋敷内に木地小屋を設え、木地挽きを始めた。このころ、芋沢から来た今野新四郎を弟子にした。折立の街道に近い場所だったので製品は飛ぶように売れたので、ダライバン式ロクロの導入など、借金をして設備の拡張を試みた。このとき、仙台の高橋胞吉がダライバン導入に尽力し、しばらく惣五郎の工房で働いたと言う。
しかし、売り上げは思うように伸びず経営は破綻した。木地を盛んに挽いたのは明治7年から明治12、3年頃までだと言う。
借金等で惣五郎は庄司家には居られなくなり、明治33年8月26日協議離婚となって、長男の庄司胞吉等を残して 小松家に復籍した。
明治35年旧12月9日没、行年49歳。
なお、作並の岩松直助から小松藤右衛門に渡った寸法帳・相伝書(岩松直助文書)は藤右衛門から惣五郎に譲られ、惣五郎から弟子の今野新四郎に譲られた。

惣五郎が挽いたという練鉢は残されているが、こけしは確認されていない。 

深沢要〈こけしの追求〉では庄子と表記されているが戸籍表記は庄司である。


庄司惣五郎が挽いた練鉢とそれを持つ庄司みつ

庄司みつは惣五郎の兄養蔵の長男小右衛門の妻である。養蔵が明治42年3月3日に亡くなった後、小右衛門が庄司家の家督を継いだ。

〔参考〕

  • 高橋五郎:〈仙台周辺のこけし〉(仙台郷土玩具の会)(昭和58年9月)
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