渡辺求

渡辺求(わたなべもとむ:1898~1968)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤伝内/佐藤栄治

弟子:佐藤正

〔人物〕 明治31年3月9日、福島県双葉郡浪江町権現堂に10人兄弟の四男として生まれる。家は金具鍛冶職で、親、兄弟に木地の関係者はいない。父が毎年鎌先温泉に湯治に行っていたので、木地細工に目をつけ、明治44年、14歳の求を宮城県弥治郎の佐藤栄治に弟子入りさせた。求は佐藤栄治やその長男伝内について木地を修業した。相弟子に蔦作蔵、鎌田文市、本田鶴松、佐藤雅雄などがいた。そのころ、青根からきた伝内の従兄の佐藤久蔵や先輩の本田鶴松、伝内の末弟の五月などの指導も受けたという。大正7年、21歳のとき7年間の年期があけて、引き続き3年間職人として給料を貰って働いた。ついで、そのころ弥治郎にいた本田鶴松の家で働き、その後、浪江に帰って大国屋木工場で会津から来た5人の職人と共に働き、約1年火鉢や傘のロクロなどを挽いた。その後、一時上京して船員を志望したが果たせず、市電の車掌になったが東北訛りで停留所名を乗客に正しく伝えられず断念して東北に戻った。その後、青森県三厩の佐藤(白川)久蔵、弥治郎の佐藤栄治、小野川の蔦作蔵、飯坂の佐藤栄治、白石の鎌田文市などのところを転々とし、昭和4年岩代熱海(現在の磐梯熱海)に落ちつき、独立して木地屋を開業した。しかし、磐梯熱海は木地製品の販路狭く、売り上げも限られていたので、昭和13年より同地の郵便局に配達夫として勤務した。以後、余暇にこけしを製作した。昭和36年ころ、郵便局を退職し土産物店を経営のかたわらこけしを挽くようになった。
昭和38年自宅の前に住んでいて幼いころから可愛がっていた佐藤孫右衛門の長男佐藤正が弟子入りを志願した。正は鉄道の保線区勤務のかたわら木地を挽き、昭和40年から渡辺求譲りのこけしを作る様になった。
昭和42年ころより体力、視力衰えこけしの製作量は非常に少なくなった。最晩年には佐藤正のこけしを店に並べていた。昭和43年12月24日没、71歳。

性格は神経質であったが徹底した職人気質で、納得がいくものでないと完成品としなかったという。また酒好きで、鎌田文市のところで仕事をしている時には、「給料を全部飲んでしまうので、求には三分の一しか渡さず、残りは貯金しておいて所帯を持つ時に渡したので、家財道具をそろえることが出来た。」と文市は語っていた。

左:渡辺求 右:佐藤正 昭和42年

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渡辺求 昭和42年 撮影:小野洸

〔作品〕  〈こけしの追求〉によれば師匠の伝内はこけしを作らず、主に伝内の父栄治がおもちゃを挽き、こけしは上手であったという。明治末年から大正初年にかけての弟子時代はこけし専門に作り、主に7寸までで6寸からはめ込みにし、5寸で五銭位であったという。
下掲の3寸7分中屋惣舜旧蔵品は、一見青根風の作りつけで、中屋惣舜は佐藤久蔵に仕込まれた頃(大正2~5年)の作ではないかとしている〈木の花・14〉。
天江コレクションにある4寸(〈図説「こけし這子」の世界・50図)も同種の作。これらはおそらく大正初年ころの作か、あるいはその頃に佐藤久蔵に仕込まれた型を継承して作ったものと思われる。佐藤春二によれば、求は久蔵に強く影響を受けていたという。


〔 11.2cm(大正2~5年頃)(中屋惣舜旧蔵)〕

下掲写真左の7寸4分は、前述の4寸とともに天江富弥が大正10年に入手したものというが、様式は弥治郎のものとなっている。


〔右より 22.4cm(昭和10年頃)、19.4cm(大正10年以前)(高橋五郎)〕

昭和4年、岩代熱海に来たころの作品として〈こけしと作者〉〈こけしの美〉96図がある。小野川の蔦作蔵の初期作品に酷似したこけしである。あるいはこの手の作品の中には、作蔵の職人をしていた小野川時代(正末昭初)の作品も混在しているかもしれない。

中屋惣舜は〈木の花・14〉で渡辺求の年代変化を議論しているが、下図のように額に描かれる青・赤・青の半円型の飾りとベレーの周囲に描かれる髪との関係が一つの決め手になると指摘している。

(1) 半円型飾りと髪との間に殆ど空間がない 昭和2~3年以前
(2) 半円型飾りと髪との間に広く空間がある 昭和4~5年ころ
(3) 半円型飾りと髪との間の空間に二筆で斜めの髪をくわえる 昭和6~7年以降

ただし、大筋ではこの傾向が認められるが、必ずしも決定的な鑑別特徴ではないと思われる。〈図説「こけし這子」の世界〉の一本は大正10年に手に入れたものであるが、様式は(2)に近く、また同書掲載の昭和2年入手といわれるものには半円型飾りと髪との間の空間に一筆ではあるが斜めの髪が描かれている。

〔右より 22.5cm、22.5cm、16.3cm、18.5cm(昭和14~15年ころ)(以上4本鈴木康郎)、12.6cm(昭和14年ころ)(河野武寛)〕
〔右より 22.5cm、22.5cm、16.3cm、18.5cm(昭和14~15年ころ)(以上4本鈴木康郎)、12.6cm(昭和14年ころ)(河野武寛)〕

昭和14~16年の作品には、面描に撥鼻、胴下部に牡丹を描く様式のものも作った。


〔 19.1cm(昭和16年6月)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

なお、昭和16、7年頃に岩代熱海駅前の花屋土産物店で売られた渡辺求型のこけしには、店主の依頼で遠刈田の佐藤好秋の製作になるものがある。〈鴻・14〉でその鑑別が議論された。基本的には、胴模様の重ね菊上部花弁が、求の場合は終端が上向きで重ね菊全体が蝶のようになるのに対し、好秋のものは遠刈田式重ね菊で上部花弁も下がったように描かれている。

戦後はややずんぐりした体型のこけしになったが、寡作ながら製作は続けた。
昭和42年に体調を崩し、以後はさらに寡作となった

〔21.0cm(昭和30年ころ)(橋本正明)〕
〔21.0cm(昭和30年ころ)(橋本正明)〕

系統〕弥治郎系栄治系列 栄治の作風、さらに佐藤久蔵の作風を偲ぶことの出来た貴重な作者であった。

〔参考〕

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