南條徳右衛門

南條徳右衛門(なんじょうとくえもん:1801~1865)

系統:作並系, 木地業

師匠:不明

弟子:岩松直助,小松藤右衛門,小林倉治

徳右衛門の名前が出たのは〈鴻・3〉および〈こけし手帖・33〉で、いずれも山形小林倉治が木地を習った作並の師匠としてである。但しこの時、姓は岩松で岩松徳右衛門となっていた。
高橋五郎の追求で「萬挽物扣帳」(岩松直助文書)が発見され、また作並の岩松の墓地に徳右衛門の墓も見つかったのでようやくその実態がはっきりしてきた。

作並:南條徳右衛門、岩松直助の墓

氏名に関しては、直助文書の木地の師匠名には南城徳右衛門と書かれていたが、徳右衛門の墓碑銘に「忠翁夕義信士 慶應元乙年十月八日 南條徳右衛門 六十五歳」とあるので、南條徳右衛門が正しいであろう。岩松旅館の地内に抱えられた場合、一様に岩松姓で呼ばれることがあったので岩松徳右衛門と伝わったようである。なお小林倉治の木地経歴の中に南條九十治と言う名前が出てくるが、南條九十治と徳右衛門の関係は良くわかっていない。一説には徳右衛門の別称が九十治だといい、また一説では徳右衛門の養子時代の倉治が九十治を名乗ったともいう。
墓碑銘から、徳右衛門が生まれたのは享和元年(1801)、慶応元年(1865)に作並において数え年65歳で亡くなったものと思われる。

岩松直助文書には木地の系譜について、「木地挽きは惟喬親王が箱根において業を始められ、わが師南徳翁に相伝、予も又汝に相伝する」という文意の一文があり、作並の木地は南城(南條)徳右衛門から岩松直助に、そして小松藤右衛門、小林倉治と伝えられたことがわかる。実質的な指導は兄弟子の岩松直助が行なっていたようだ。
木地の開祖としての惟喬親王説話は、史実ではないが木地屋伝説としては普遍的である。ただし、その開業が箱根においてであるというのはこの直助文書の独特な記述で、おそらく南條徳右衛門の木地の伝承が箱根方面からであったことからくる岩松直助の思い違いではないかと考えられる。徳右衛門の木地の系譜は明確ではないが、1.染料を用いて玩具をつくる赤物木地を挽いたこと、2.箱根小田原には北条家支配以降、北条、南条(南條)姓が多いこと、3、直助がわざわざ箱根と言う地名を記したこと、などから、徳右衛門と箱根との関係を想定することは無理ではない。

こうした資料を念頭に南條徳右衛門の生涯を推定すれば次のようになる。
享和元年に箱根近辺で生まれ、箱根湯本に多くあった土産物を商う挽物店などの木地技術を身につけた。

箱根湯本の挽物店 伊豆屋

何らかの事情で、文政年間頃に山形経由あるいは直接作並に移り岩松旅館の要請で当時盛んになった湯治の客相手に土産物などを作るようになった(直助文書に記載された木地製品は、玩具や小物が多く、板物等はほとんどないので土産物が中心だったと思われる)。天保に入って秋田から来た岩松直助(秋田での名前は麻生政治)、愛子からきた小松藤右衛門、万延になって山形から来た小林倉治に木地を教えた。こけしの製作に当たっては徳右衛門が箱根時代の経験によって創案したのか、遠刈田あたりからのヒントによったのかはわからない。

岩松直助が徳右衛門からの相伝として文書を作成し、その筆頭に人形としてこけしの寸法を記しているから、おそらく徳右衛門も最も重要な製品としてこけしを作ったであろう。徳右衛門作の遺品は残っていないが、その様式は作並系、山形系のこけしの中に残っていると思われる。

〔参考〕

  • 近松義昭:小林倉治と南條徳右衛門〈こけし手帖・696〉(平成31年1月)
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