秋保村立職工学校

宮城県名取郡秋保村に明治43年から大正9年まで開校されていた村立の職工学校。指導職種は塗り以外は木地が中心であったため、俗に秋保村立木地学校とも言っていた。
役場の明治44年記事に設立事情に関する記述がある。
「一、職工学校、本村立職工学校ハ去ル明治三十五年当時生業扶助事業トシテ本村字野尻ニ工業補習学校タル名称ノ下二設立シ爾来之レカ経営ノ結果其成績良好ヲ得地方尤モ適切ナルエ業教育タルヲ認メ明治四十三年本校ノ発展ト共二校則ヲ改正シ徒弟学校例ニ拠ル職工学校ト改称シ文部大臣ヨリ設立ヲ認可セラレ五ヶ年間ノ国庫補助交付ノ許可ヲ受ケタリ本校ハ秋保小学校訓導兼校長柴田栄三郎校長ヲ兼任シ訓導大内階助教諭兼任遊佐幸太郎教諭二任セラレ曾根熊五郎嘱託、教員ヲ命セラレタリ目下校舎ヲ長袋ニ移転シ本校ノ設備ト共ニ生徒ヲ募集シ職員及生徒等何レモ熱心ニ精励セリ本校ノ教授要目ハ木地挽工ノ外修身国語算術理科図画等ノ教授ヲナセリ又製作品ノ販売方法ハ規定ヲ設ケ村内弐ケ所ニ販売所ヲ設置シ其他ノ販路ハ東京横浜山形仙台市等ニ輸出セリ本校現在ノ生徒数ハ二十三名ニシテ内第一学年十九名第二学年四名ナリ本校ハ地方山林タル僻村ニハ将来尤モ有望タルヲ信ズ故二益々校運ノ隆盛ト共ニ之レカ発達ヲ計ラントスルニアリ」
秋保町教育委員会長岡崎俊太郎によれば、初代校長は加藤慶五郎、二代校長柴田栄三郎であった。遊佐幸太郎は鳴子より指導にきたが、幸太郎は大正2年10月に鳴子へ帰ったので、大正2年12月22日遠刈田より佐藤治平が赴任した。塗りのほうは曾根熊五郎死去の後小関利根治がきて指導に当たった。その他半沢城平、長尾喜三郎、大沼栄三郎(鳴子)等は助教諭か教員、須藤円蔵は書記である。須藤は大正5年2月より同9年10月まで勤めている。


秋保村立職工学校 前列左より二人目が治平

佐藤治平によると教員の給料は大正7年に22円、大正10年に25円で決して高いほうではなかったが、遠刈田での生活に比べ、収入が安定しているだけ気持ちにゆとりを持てたという。
木地と漆器の技術指導が主要目的で、名は職工学校であるが、右以外は教えていない。主として盆と椀を作り、こけしは作らなかった。
大正9年廃校となった事情は秋保町の大正9年2月26日の村会議事録(柴田栄三郎村長)にある。
「第五号議案秋保職工学校廃止ノ件。・・・(中略)・・・施設経営スルコト茲ニ十八ケ年其間多数ノ卒業生及伝習生ヲ出シ今ヤ独立自営ノ工業者多数ナルニ依り今後多額ノ費用ヲ投シ学校ヲ存続シ生徒養成ノ必要ナキニ依大正九年度ヨリ左記ノ施設方法ニヨリ之レヲ廃止スルモノトス。
  記
一、組織ヲ変更シテ工場トナシ主トシテ技術ノ速成ヲ謀ル事
二、同業組合又ハ個人経営トシ現在備付ノ建物及工具等ヲ無償貸付シ且ツ相当発達スルマテ保護ヲ与フルコト
三、現在ノ生徒ヲ移シテ之レヲ収容シ徒弟関係ニヨリ技術ノ修練ヲナサシムル事」
議案は以上のとおりであったが、廃校の実際の理由およびその背景は、製品の売れ行きが減少したこと(不況による)、卒業生が木地技術を身につけても自活できず、生徒数も年々減少し、最後は僅々四、五名になってしまったこと等のためである。廃校数年前より残品整理等をしていたから、村会ではそういうことを予見していたふしがある。
山尾武治、後藤熊太郎、佐藤文六(秋保)等はこの学校に学んだこけし工人である。

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