石沢角四郎

石沢角四郎(いしざわかくしろう:1894~1969)

系統:蔵王高湯系

師匠:斎藤松治、斎藤源吉

弟子:石沢寅雄

〔人物〕石沢角四郎は明治27年5月20日山形県南村山郡東沢村釈迦堂の大工石沢角二・しんの二男に生まれた。  明治39年4月13歳の時、蔵王高湯の三春屋斎藤松治に弟子入りし木地挽きを学んだ。明治41年1月兵役に就いていた斎藤源吉が除隊となって戻ってきたので、以後は主に源吉に教わるようになった。こけしのほか、鳴り独楽などの玩具、盆類も挽いたが、それらは松治の妻が堤げ売りと称して旅館を回り売り歩いていた。  大正4年6月期明け後、一時山形市や、米沢市でも職人として働いたが大正7年釈迦堂に戻って独立開業した。  製品は主に米沢市座頭町ひろえ屋に納める機類(木管類)で玩具は全く挽かなかった。

石沢角四郎の経歴や、角四郎と交流のあった木地師たちからの聞書は吉田慶二氏によって周到に行なわれており、昭和41年に私家版〈聞書・木地屋の生活〉としてまとめられている。

角四郎からの聞き書きをまとめた〈聞書・木地屋の生活〉吉田慶二著

角四郎からの聞き書きをまとめた〈聞書・木地屋の生活〉吉田慶二著

釈迦堂に移って以後の石沢角四郎に再びこけしを作らせたのは深沢要である。  「昭和15年9月10日、私は幸いにも他出前の角四郎に会い、こけしを頼むと、翌日彼はヨウシンを求めてきて、見ている間に思い出のこけしを作ってくれた。 (中略) 角四郎は長い間、本当に長い間、こけしを作る機会はなかったという。これからはまた作ることになるだろうが、角四郎はこの初作においてすでに一家を成している。(深沢要遺稿)」と深沢氏が書いている。
深沢要が紹介して以後、鴻の頒布などもあって作品は蒐集界に知られるようになった。戦後も昭和28年の伊勢こけし会での頒布などもあり、作品数は多くはないが継続してこけしは作っていた。昭和30年より二男寅雄が木地を習い、こけしを作るようになった。角四郎は昭和42年に心臓を悪くし、以後製作数は減ったが、注文に応じて昭和43年頃まで作り続けた。口数の少ない職人気質の工人だった。 昭和44年11月6日77歳で亡くなった。

石沢角四郎 昭和43年

石沢角四郎 昭和43年

〔作品〕 深沢要が昭和15年に依頼して作らせたものが現存最初期のものであろう。このときの二本はいま鳴子の日本こけし館深沢コレクションに保存されている。一本(写真右)は黒頭、目は下瞼が下方に膨らむ独特の表情、他方(写真左)は手絡で下瞼は上方に湾曲する。淡白な作風ながら、大正初期の蔵王高湯の形式は確かに残している。〈こけし辞典〉の写真は不鮮明であるが、この右の黒頭である。

〔ともに19.7cm(昭和15年9月)(深沢コレクション)〕

〔ともに19.7cm(昭和15年9月)(深沢コレクション)〕

昭和16年1月の〈鴻〉頒布は、1尺、8寸、6寸、4寸、1寸の5種。材はイタヤ。オカッパと手絡の2種があった。

戦後も蔵王高湯三春屋の伝統を継承したこけしを作り続けたが、時には斎藤松治型の胴のくびれたこけしも作っていた。

〔右より 26.0cm(昭和41年)、17.7cm(昭和40年)、25.5cm(昭和42年)(橋本正明)〕

〔右より 26.0cm(昭和41年)、17.7cm(昭和40年)、25.5cm(昭和42年)(橋本正明)〕

〔伝統〕蔵王高湯系三春屋・緑屋の伝統を引いている。後継者は二男寅雄であったが、寅雄も平成21年に亡くなった。