奥山喜代治

奥山喜代治(おくやまきよじ:1905~1972)

系統:肘折系

師匠:奥山運七

弟子:奥山庫治

〔人物〕 明治38年3月3日、山形県北村山郡大久保村(現村山市)大原の農業篠沢金蔵・いしの三男として生まれた。〈こけし辞典〉では父の名を篠原金蔵としているが篠沢が正しい。大正10年6月17歳のとき肘折へ行き、同郷大原出身の奥山運七の養子 (入籍は12年)となった。その年の冬より冬季間二年にわたり、養父運七について木地の手ほどきを受けた。大正12年の秋、最上木工場へはいり、佐藤三治について木地の手直しを受け、昭和4年に最上木工場が閉鎖されるまで、そこで働いた。その後は父運七と共に自宅のロクロで汽車、こけし、茶道具などの温泉みやげの玩具を主に挽き、山仕事や出かせぎもした。昭和8年に長南亀五郎長女ハツエ(大正元年12月22日生まれ)と結婚。翌年長男庫治が誕生した。昭和13年秋には北海道へ出かせぎに行き、翌14年5月肘折へもどったが、間もなく6月6日に養父運七が没した。昭和16年から21年までは炭焼きを生業とし、木地は挽いていないが、この聞、昭和18年、一定期間のみこけしを挽いたことがある。このときのこけしは丸屋旅館を通してさばかれ、仙台の南北堂などで売られた。昭和22年ころより主に山仕事に従事し、冬の間木地を挽いた。その後しだいに木地の比重が増えて、昭和40年ころからは、ほとんど木地専業となった。晩年は胃潰瘍に悩まされ、仕事を休むことが多くなり、好きな酒もやめて養生につとめていたが、昭和47年1月15日没した。68歳。後継者に長男庫治がいる。

自宅前に立つ奥山喜代治(昭和43年)

自宅前に立つ奥山喜代治(昭和43年)

奥山喜代治 昭和46年

奥山喜代治 昭和46年

〔作品〕 昭和4年最上木工所から肘折に帰り、運七とともに木地を挽いていた期間(昭和7年ころまで)は、作られたこけしの殆どが一家の合作で運七名義で蒐集家の手に渡っていた。ヤスの描彩(主に胴模様)、喜代治の描彩(しばしば面描)のものがある。
昭和4年ころの最初期の作品は〈こけし人形図集〉の図版に紹介された米浪庄弌旧蔵のものである。瞳の両端が開いている特徴的な描法のため容易に鑑別できる。
昭和6年ころの作は奥山運七に作品を依頼したとき、送られてきたものの中にかなり混じっている。写真掲出の木人子室蔵6寸6分は、石井眞之助旧蔵で胴背に奥山運七と署名があり、石井眞之助から西田峯吉に贈られた奥山運七(現在原郷のこけし館蔵)と同じ時の作品である。写真掲出の深沢コレクションの7寸も、石井眞之助のところから出た同時期のものかもしれない。
昭和7年ころから運七はほとんどこけしを作らなくなったので、以後は概ね喜代治の作である。おそらく喜代治にしても継続的な製作ではなかったとみられ、この期間の作風はその製作時期によってかなり幅がある。
作者として正式に紹介されたのは、昭和14年の〈こけしと作者〉によってであるが、このころは北海道へ出稼ぎに出ていたり、帰郷後も主に炭焼き等に従事していたため作品数は少ない。蒐集家が懇願したため鈴木幸之助木地に描彩だけしたこけしも残っている。
昭和18年に一時こけしを作った時は丸屋旅館経由で仙台の南北堂などで売られた。この時期の作風は比較的安定しており、まとまった数のこけしを製作したものと思われる。
戦前の作品の年代変化は〈こけし手帖・69〉〈木の花・第拾九号〉に詳しい。
戦前の喜代治の作品は、作風に大きなむらがあるが、どのような作でも肘折らしさが濃厚に表れていて、好ましいこけしである。整ったものには高い気品があり、またおどけたような表情のものには童心をそのまま表したようなほほえましさがある。

米浪庄弌旧蔵 昭和4年作の極初期喜代治 〈こけし人形図集〉図版
米浪庄弌旧蔵 昭和4年作の極初期喜代治
〈こけし人形図集〉図版

奥山喜代治 19.7cm(昭和6年ころ)(木人子室) 運七名義 胴は奥山ヤスの描彩といわれる
〔19.7cm(昭和6年ころ)(橋本正明)〕
運七名義 胴は奥山ヤスの描彩といわれる 

21.1cm(昭和6年ころ)(深沢コレクション) 木人子室蔵と同時期であるが作風は一定していない。 胴模様はやはりヤス描彩であろう。
〔21.1cm(昭和6年ころ)(深沢コレクション)〕
橋本蔵と同時期であり、共に石井眞之助旧蔵品であるが作風は一定していない。
胴模様はやはりヤス描彩であろう。

左から昭和6年ころ、昭和14年ころ、右端昭和4、5年ころの作。 右端は〈こけし人形図集〉米浪蔵と同じで、目じりが開く初期の特徴がある。
右より、昭和4、5年ころ、昭和14年ころ、左端は前掲の橋本蔵で昭和6年ころの作。
右端は〈こけし人形図集〉米浪蔵と同じで、目じりが開く初期の特徴がある

いづれも昭和18年の作、仙台南北堂より売られたもの。
いづれも昭和18年の作、仙台南北堂より売られたもの。

左2本:昭和18年、喜代治の木地車
左2本:昭和18年、喜代治の木地車

戦後は、昭和22年ころより山仕事の傍ら少しづつこけしを作り始めたが、本格的な製作再開は昭和28年頃からで、東京こけし友の会が昭和29年に頒布を行って以後、注文も多くなり、こけし製作に関わる比重が増えていった。昭和28年から30年ごろまでの作は、頭が大きく、目も切れ長で緊張感のある表情のこけしであった。戦後のピークといわれる時期に相当する。
昭和32年以後、胴下端のロクロ線が上がって、胴底との間に空白部が出来るようになる。このためやや胴模様が窮屈になり、模様も小味に変わっていった。
昭和40年以後はほぼこけし専業であった。
復元作を店などで売ることはしなかったが、熱心な蒐集家の勧めで運七風のこけしや、自分の古作の復元作を試みることはあった。

戦後の喜代治、昭和28~30年くらいまでの大頭喜代治は”戦後のピーク”と呼ばれた。
戦後の喜代治、昭和28~30年くらいまでの大頭の喜代治は”戦後のピーク”と呼ばれた。

〈こけし手帖・69〉で中屋惣舜は、頭部の手絡の描法が一番明確な年代鑑別の特徴点になるとして下図の手絡変化図を示した。戦前を第1期、戦後を第2期、第3期とし、戦前の第1期をさらに年代で細分して示した。この図の製作年代による相対的な推移はおおむね正しいが、今日では絶対年代に若干の補正が必要であろう。戦前の正末昭初とするものは昭和4年頃、昭和3年頃とするものは昭和5,6年、昭和7年頃とするものは昭和6年頃であり、それ以降はおおむね正しい。
中屋惣舜の特徴点による年代鑑別は、〈鴻〉、みずき会の〈こけし研究ノート〉のアプローチを踏襲するものであり、昭和40~50年代の年代鑑別の主流となった手法であった。
このように〈こけし手帖・69〉の中屋稿は、重要記事であったにもかかわらず編集者の杜撰な校正のために、原稿の三分の一づつが前後が入れ違って印刷されており、読んでもまったく意味をなさないような形で刊行されたのは極めて惜しい。

〈こけし手帖・69〉の中屋惣舜による年階鑑別点・手絡の変化
〈こけし手帖・69〉の中屋惣舜による年代鑑別点・手絡の変化

〔伝統〕肘折系運七系列。後継者に庫治がいたが平成20年に没した。今は庫治の弟子鈴木征一が運七、喜代治の流れをくむこけしを作る。

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