小椋久太郎

小椋久太郎(おぐらきゅうたろう:1906~1998)

系統:木地山系

師匠:小椋久四郎

弟子:小椋宏一/小椋利亮

〔人物〕 明治39年7月30日、秋田県雄勝郡皆瀬村川向(木地山)の木地師小椋久四郎、キクの二男に生まれる。留三は実弟、石蔵は叔父、正治は従兄にあたる。
稲庭の母方の祖父栗原久之助の家に寄宿して、稲庭尋常小学校に通学した。13歳ころより、学校の休みに木地山の実家に戻っては、父久四郎について木地を学び始めた。学校を卒業してからは木地山で木地業についたが、大正9年に腹違いの兄富蔵(長男)が夭逝したので家督継承者として家業に専心することになった。15歳のころには、製品を須川、鷹ノ巣、秋の宮、湯ノ浜、大湯などまで運んで商ったという。大正14年に、仙台の天江富弥が木地山を訪問、盲目の綱取り荒屋敷松蔵に綱を挽かせて、二人挽きで、15、6歳の少年である久太郎がこけしを作っていたことを目撃している。この当時から久太郎はこけしを作っていたことになる。
昭和6年古関ミヨと結婚、長男宏一が生まれた。
昭和7年7月に橘文策が木地山を訪れた時には、久四郎、久太郎がそれぞれ荒屋敷松蔵の綱取りで二人挽きロクロの実演を見せており、その写真は〈こけしざんまい〉に紹介されている。ただ、道路に面してニ台の足踏みロクロがあり、二人挽きと計三台のロクロで作業している由も書かれているので、当然足踏みの技法もこれ以前に伝わっていた。
昭和8年2月に父久四郎が56歳で亡くなったので、以後は家督とともに、家の前にある皆瀬村灌漑用水池である桁倉沼の管理人の職を継承した。
昭和16年応召、弘前の野砲隊に一定期間入隊したが、それ以外は木地山に居て、一貫して木地業を守り続けた。弟の留三、長男宏一ともに木地を挽くが、こけしの描彩は専ら久太郎が行っていた。
戦後は、昭和30年代後半までランプの生活が残り、秘境ブームの中、「ランプの下でこけしを作る名人」と取り上げられたこともあり、有名になった。また熊撃ちも得意で、木地山を訪ねると、熊の毛皮が懸っていたり、敷かれていたりした。熊の毛皮はふもとの湯沢の旅館や酒の蔵元等で需要があり、高値で引き取られていったようだ。勤勉であり、また逞しい生活力を持って一家を支え続けた。小柄ではあったが家長として堂々とした風格を備えた工人であった。
祖父として、孫の利亮に手取り足取りで木地を教えていた姿は印象的であった。
平成10年3月21日没、行年93歳。

桁倉沼に面した作業場で木地を挽く小椋久太郎 昭和39年
桁倉沼に面した作業場で木地を挽く小椋久太郎 昭和39年

描彩する小椋久太郎 昭和39年
描彩する小椋久太郎 昭和39年

利亮に挽き方を教える久太郎 昭和43年8月 
利亮に挽き方を教える久太郎 昭和43年8月


小椋一家 昭和50年  撮影:橋本正明
左より 宏一、留三、久太郎、ミヨ、利亮、リヨ


小椋久太郎、ミヨ夫妻

〔作品〕 天江富弥の報告にもある通り、こけしは大正末期から作り、描彩も行っていたというから、小椋久四郎として伝わるものの中にも久太郎のこけしは混じっているであろう。
また、昭和8年に久四郎が亡くなった後も、久四郎宛てに来た注文には全て久太郎が作って送っていたから、久四郎名義の久太郎も存在する。
この頃(昭和7,8年から12年ころ)の久太郎を蒐集家は「久四郎贋作時代」と呼ぶが、実際には蒐集家の注文に応じて、久四郎に倣ったこけしを作って送ったにすぎなかったのだろう。

下の写真の右端、久四郎名義で蒐集家の手に渡ったもの、全体に久四郎の雰囲気は写しているが頭の形状、おでこの空間、梅の描彩の硬さなど久四郎とは少し違う。決定的なのは着物の襟のY字型で、久四郎は縦に下がり、収筆は右に反るのに対し、久太郎は左に直線的に延びて終わる。この右端は完全に久太郎の襟になっている。
左端は横見梅が既にだんご梅と称される丸い形に変わりつつある。昭和10年代に入ってからの作品であろう。

〔43.8cm(昭和8年)、30.0cm(昭和10年頃)(西澤童宝玩具研究所旧蔵)〕
〔右より 43.8cm(昭和8年)、30.0cm(昭和10年頃)(西澤童宝玩具研究所旧蔵)〕

下の石井眞之助旧蔵品は昭和9年、上の二本の中間に入るもので、久太郎としての個性が確立しつつある作品である。

〔30.3cm(昭和9年)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵
〔30.3cm(昭和9年)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵

下掲の二本も横見梅は、大きく横広がりで昭和一桁代の作風。


〔右より 26.0cm、36.0cm(昭和8~9年)(沼倉孝彦)〕左は浅賀八重子旧蔵

下掲は昭和10年、この頃から横見梅は横長ではなく丸みを帯びる。この時期を通称「団子梅の時代」と呼んでいる。団子梅時代は昭和10年から昭和19年頃まで続く。


〔26.6cm(昭和10年9月)(沼倉孝彦)〕草柳散歩旧蔵


〔右より 9.6cm、14.3cm(昭和12年頃)(沼倉孝彦)〕
左は鈴木鼓堂旧蔵


〔24.5cm(昭和14~5年頃)(沼倉孝彦)〕

下掲は菊模様、小寸の場合には前垂れ模様ではなく、菊模様を描く場合が多い。


〔18.0cm(昭和12年頃)(沼倉孝彦)〕

こうした前垂れに横見梅や菊模様の標準的な久太郎名義のこけしの他に、昭和12,3年頃から小椋留三名義で、一側目の面描に、胴は菊模様のこけしが世に出るようになった。これも久太郎の描彩であることが、深沢要の現地訪問(昭和14年4月)で明らかになっている。


〔24.5cm(昭和13年)(沼倉孝彦)〕留三型


〔右より 26.7cm、34.4cm(昭和14~15年頃)(沼倉孝彦)〕右端は米浪庄弌旧蔵

久太郎は戦後に入っても精力的にこけしの製作を続けた。
木地は留三、宏一とともに挽き続け、居間に山のように積まれた木地に、久太郎は手早く描彩を行っていた。従って木地は三人のものが存在するが、その鑑別は至難である。
木地によって作品の出来に上下があるということはない。
昭和33年、昭和44年に東京こけし友の会の旅行会があった時に、依頼されて久四郎の型を作ったことがあった。その影響からか、 横見梅の描き方は戦前より昭和30年代以後の方が筆が走って草書体の筆法になっていた。
堂々とした量感の木地に、前垂れ模様を配した久太郎こけしは、戦後のこけしブームの時代(昭和40年代)を支えた代表的なこけしの一つであった。
〔25.5cm(昭和34年)、21.6cm(昭和39年)、30.3cm(昭和43年)(橋本正明)〕
〔右より 25.5cm(昭和34年)、21.6cm(昭和39年)、30.3cm(昭和43年)(橋本正明)〕

系統〕 木地山系

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