久米美恵子(くめみえこ:1959~)
系統:木地山系
師匠:小椋久太郎/小椋宏一
弟子:
〔人物〕 木地山の小椋宏一の描彩者の一人。また美恵子名義の作品もある。
昭和34年3月1日、秋田県雄勝郡皆瀬村川向水上沢(木地山)の木地業小椋宏一、リヨの長女として生まれた。小椋久太郎の孫で利亮の妹である。美恵子は祖父久太郎と祖母みよに殊更可愛がられて育った。
美恵子が幼少期の昭和30年代後半から小学校に通い出した昭和40年代前半は、木地山こけしが一種のブームで、収集家だけではなく、多くのマスコミ関係者の取材が相次いだ時期であった。
当時、小椋家ではこけし製作が家業の中心となっていて、3学年年長の兄利亮も小学生の頃から轆轤で遊んでいた。同じ様に美恵子も描き手として手伝うようになり、父久太郎の描彩を毎日見ながら育った。
恵美子は中学生まで自宅で生活したが、高校入学より下宿して湯沢市内の高校に通うようになった。地元で就職して事務関係の仕事に就いた。平成2年に結婚して久米姓となり横手市に居住することになった。久太郎が平成10年3月21日に亡くなったので、父の宏一は絵心のある美恵子に描彩を依頼するようになった。
雑誌のインタビューで宏一は「親父が偉大すぎて、それをそのまま伝承していくことは大変ですが、150年の伝統は絶やすわけにはいきません。木地山こけしは分業で作業しており、木地つくりを2名、絵付けを2名でやってきました。私は木地作りを主に行い、絵付けは娘の美恵子が四代目のあとを伝承しています。横手に嫁いでいるので不便もありますが、今はそう売れる時代では亡くなったので、野良仕事をしながらゆっくりやっていきたいと思っているところです。」〈DePOLA(デポラ)17号1999年秋冬号(全国過疎地域自立促進連盟発行)〉と答えていた。
美恵子によると依頼は確かにあり少し描いたが、子供の世話が大変な時期であり、平成11年以降はほとんど描彩を行えなくなっている。のちの描彩は古関節郎、古関六平、草柳散歩が行った。
〔作品〕美恵子は幼少期から、久太郎や宏一の挽いた木地に描彩をしていた。
下掲は左が5歳の時、右が小学3年生の時に描彩したもの。
〔右より 13.0cm(昭和42年)、12.0cm(昭和39年8月)(沼倉孝彦)〕
下掲は美恵子が高校時代に描彩したもの。
〔右より 22.5cm(昭和51年5月7日) 、21.5Cm(昭和49年7月7日)(沼倉孝彦)〕
美恵子の描彩は、祖父久太郎を彷彿とさせ、一定の完成度のある作品になっていた。
〔27.0cm(平成11年9月)(中根巌)〕胴背には「秋田木地山こけし 美江子作」と署名がある
〔伝統〕木地山系
〔参考〕