佐藤文平(さとうぶんぺい:1875~1930)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤文治
弟子:佐藤文作/佐藤文助
明治8年10月20日、宮城県刈田郡宮村遠刈田新地の佐藤文吉二男に生まれた。明治19年より兄文治につき木地を修業した。明治24年に佐藤重松と共に蔵王高湯の斎藤藤右衛門の工房で職人として働いた〈蔵王東の木地業とこけし〉。以後は青根の丹野倉治のもとで、義兄茂吉と共に職人をした。
明治30年佐藤七蔵の娘つねと結婚、婿養子となった。義父となった佐藤七蔵は遠刈田の佐藤亥之松五男、明治18年に周治郎、久吉、茂吉、寅治等と共に田代寅之助に一人挽きを学んだ工人で、当時は青根の小原仁平の工場で職人をしていた。そこで文平も、青根の小原仁平方の職人として働いた。明治38年に一家は青根を去り、遠刈田にもどって木地を続けた。
明治42年から、佐藤松之進、吉郎平、茂吉等と共に小室万四郎方の職人となった。この年から長男文作に木地を指導、また大正4年から次男文助に木地を指導した。
大正6年ころ、一時佐藤寅治や小原直治等と共に仙台の北の黒川郡嘉大神(現 大和町)で木地挽きを指導した以外は、ほぼ遠刈田新地で木地業を続けた。
昭和5年7月12日没、行年56歳。
木地は文治の弟子であり、文治の師は茂吉であるので、こけしも吉郎平系列茂吉家の影響を持ったものを作ったであろうと想像されるがその作品は未確認である。