明治42年から大正10年にわたって東京、大阪の三越呉服店で計9回開催された児童博覧会。
下掲は第一回児童博覧会の際に、〈みつこしタイムス〉臨時増刊として発刊された児童博覧会特集号。
三越児童博覧会には毎回入場者が殺到し、展示場から直結した売店にまで人の列が続いて、売店での売り上げは非常に大きなものだったという。
下掲は児童博覧会各回の開催状況。
こうした企画は従来ほとんど市場として成立していなかった「子供」というものを中心に新たな一大市場を形成したことに大きな意義があった。以後、百貨店において子供というものが消費者ターゲットとして重要な位置を占めるようになった。
三越児童博覧会の始まり
明治37年、三越呉服店は三井呉服店から独立して株式会社となり、益田孝が代表発起人、日比翁助が専務取締役に就任した。この時、日比は「デパートメントストア宣言」を発して百貨店型の経営を始めた。明治39年、翁助は欧米を視察し、ロンドンのハロッズ百貨店の経営に大いに刺激を受けた。そして百貨店としての市場開拓を目指して、新しい流行の分析と創造をめざす「流行研究会」などの活動を始めた。
第一回の児童博覧会では日比翁助が会長を、巌谷小波が顧問を務めた。
その「開設趣旨」の大略は次の通り。
「児童に関する最近の活動は極めて盛ん、各方面の研究調査も精緻になり驚くべき状態になっている。その改善発達の状況を見るためには、成果を一堂に集めて多くの人に見てもらうのが一番いい。春で時節も最適な今、三越呉服店特別陳列場で児童博覧会を開く。児童そのものを陳列し、若しくは児童の製作品を陳列するものにはあらず、男女児童が平常坐臥行遊に際して片時も欠くべからざる衣服、調度及び娯楽器具類を、古今東西に亘りてあまねく鳩集し、また特殊の新製品をも募りて之を公衆の前に展覧し、以て明治今日の新家庭中に清新の趣を添へんことを期する。こども博覧会は既に、三府を初め、彦根、博多の各地で開催されたことはあるが、選ぶものは必ずしもそれらと同じではない。新意匠、新考案のものについては審査し、優秀なものには記念賞を与える。」
そしてその審査員として、新渡戸稲造、高島平三郎、坪井正五郎、坪井玄道、塚本靖、中村五六、黒田清輝、斯波忠三郎、三島通良、菅原教造、小野喜惣治、宮川寿美子が挙げられている。
三越本店の日本橋通りに面した2600平米の空地を利用して展示館が新設され、また事務棟の一部も改装されて会場となった。新展示館は中庭のあるゴシック式大建物でコの字型をしており、正面はスイスのルセルン(Luzern)山の光景を模して、洋々たる湖水もあり、「ヨーロッパが蜃気楼のように現れた感あり」と評判になった。中庭の花壇には噴水があり、その両側の動物檻には多くの鳥類、熊・猿・犬・猫がいた。演芸館では、お伽芝居、神楽、丸一手品、所作事、しん粉細工、手品などが毎日午後に三回ほど行われた。三越は、この成功を見て、児童用品蒐集、考案創作の奨励、優良品の普及、製品の監査を行う常設の研究組織としての「児童用品研究会」を発足させた。
児童博覧会とこけし
三越の児童博覧会は大正10年の第9回まで続いたが、この博覧会にはこけしも出品された。
志戸平の佐々木与始郎の弟與五郎は「私が木地を習い始めた頃、三越から大量のこけしの注文が来て、家族で挽いた。」と語っていたから、おそらくこれは児童博覧会への出品であっただろう。
高橋盛一家の小寸などに、三越様の赤い縁模様のあるレッテルが貼られたものもあるが、それらも三越博覧会で売られたものであろう。
下掲は鳴子の高橋盛一家のこけし、盛の四男勘四郎の作とされるもの。胴下部のロクロ線の右側にレッテルの剥がした跡が見られるが、これは三越のレッテルだったのではないかと言われている。
〔13.6cm(大正中期)(日本こけし館)〕深沢コレクション
縁起物としての視点の喪失
一方で、こうした児童博覧会で玩具が扱われるようになった過程においては大きな変化もあった。清水晴風は、大部分の玩具は「信仰により生まれたもの」で、いわゆる「縁起物」であったという視点を持ち続けていたが、「こども博覧会」「児童博覧会」では、玩具を子供のもの、健全な幼育を支えるものという視点でのみ扱った。したがって博覧会が成功し受け入れられた結果、その後の玩具という概念の中から、縁起物としての玩具が持っていたある種のいかがわしい面は払拭されていくこととなった。
陽の当たる面のみの玩具からは、縁起物の玩具が本来持っていたしたたかな生命力が失われてしまったという見方もある。
〔参考〕