鎌田千代松(かまたちよまつ:1860~1921)
系統:南部系
師匠:不詳
弟子:煤孫茂吉
〔人物〕岩手県稗貫郡湯元町大字臺(台温泉)の鎌田甚兵衛、ヨシの長男として万延元年5月2日に生まれた。旧文献では千代治あるいは千代吉と記述されていたが戸籍表記は千代松である。千代松の家は代々甚兵衛を名乗り、千代松も家督相続後は甚兵衛を襲名した。
父甚兵衛は羽黒の修験道を学んで「臺の天狗」と呼ばれ、同じ修験道仲間の「清六天狗」とも仲が良かった。清六天狗の話は、柳田國男の〈遠野物語〉にも出てくるから、当時の有名な修験者であったと思われる。菊田定郷編の〈仙台人名大辞書〉(昭和8年刊)には「セーロクテング{清六天狗}健脚家。一ノ関山ノ目の飛脚にて身体軽捷比なし、一ノ関仙台間相距る二十五里、清六一日にて往復するを常とす。その道路を行くや飛ぶごとく里人依って清六天狗という(千早多門氏稿)」と記されている。
鎌田千代松は慶応元年6歳のときに、この清六天狗について諸国を遍歴し、明治12年20歳になってようやく臺(台温泉)に戻った。遍歴時代に清六について修験道を学んだが、鍛冶屋、石工、木地挽きの技術も身につけたといわれる。
臺に戻った千代松は明治19年に鎌田勝七長女ハツと結婚した。松田旅館裏手の臺川の上に木の板を渡して作った木地小屋で、妻女に綱を取らせて、二人挽き、立木の小物を専門に挽いていた。盆・茶櫃といった大物塗り下ではなく、温泉宿で鬻ぐ小物を挽いていたと思われる。橘文策の聞き書きによれば「こけし、コップ作りは巧妙で、県令石井省一郎から賞状を得た」〈教室だより・50号)という。明治23年にハツは長男千代太郎を生んだが同年12月に亡くなったので、千代松は翌明治24年佐藤伊八妹トヨと再婚し、明治28年に次男幸太郎が生まれた。
修験道による祈祷治療なども頼まれると行っていたらしく、特に傷寒(腸チフスの類か)には効力を発揮したらしい。修験道は陰陽道とも関係が深く五行と方位を司どる八將神(太歳神・大将軍・大陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神)を祀った。今日でも花巻温泉から臺温泉に向かうと不動の滝の近くに鎌田甚兵衛発願の「八將神万人供養」の大きな石碑(明治26年の建立)が建っている。千代松も代々の「臺の天狗」を継承していた。
鎌田千代松(甚兵衛)が明治26年に建立した八将神碑(臺温泉)
花巻でキナキナを作った煤孫茂吉は、明治21年11歳のとき、臺温泉で開業間もない鎌田千代松について木地挽きの修業をした。茂吉の祖父長次郎と千代松の先代甚兵衛とが友人であった縁による。茂吉は明治24年まで臺にいて、その後盛岡に移って松田清次郎の弟子となった。ここで外国旋盤にヒントを得て組み立てたハズミ車応用足踏みロクロによる一人挽きを習得、明治33年には花巻に戻って独立開業した。
一方、千代松は最後まで二人挽きで通したが、晩年は眼を悪くして、石工や車引きをやり、また自転車店も開いていたという。下掲は大正初期の臺温泉地図であるが、松田旅館の位置より下流、臺温泉入り口近くに鎌田自転車店を確認できる。大正10年12月26日に62歳で没した。
なお台温泉では、こけし作者としての鎌田千代松より、修験者「臺の天狗」としての鎌田千代松の方が土地の記憶に残っている。平成25年には八将神万人供養塔建立120周年記念の祭事もおこなわれたという。
〔作品〕確実に鎌田千代松(甚兵衛)作と確認できるこけしはない。
従来いくつかの作が鎌田千代松ではないかと議論された。
下掲は〈こけし這子の話・図版12〉に掲載された臺こけしで解説では「作者は五郎城にいる」とある。しかし五郎城の藤原酉蔵や藤原政五郎とは全く違う作風なので、鎌田千代松ではないかと言われたことがある。しかし臺温泉およびその周辺では、鉛温泉の大沼岩蔵(明治36年頃)、鈴木庸吉(明治39年)、大沼甚四郎・小松留三郎(明治40年)、伊藤松三郎(明治41年)、大沼万之丞・秋山忠(明治43年)、花巻には高橋万五郎・岸正男(明治43年)、臺温泉の高橋寅蔵(明治44年)、小松五平(大正元年)、柴崎丑次郎(大正3年)など多くの鳴子こけし作者が働いており、おそらく下掲のこけしも鎌田千代松の作ではなく、いづれかの鳴子の工人によるものが臺で売られていたのだろう。
また伝千代松は、中井淳旧蔵のラッココレクションにあり、昭和34年4月に発刊された〈中井淳集〉に口絵・こけし群像として掲載された7本の1本が「鎌田千代治」として紹介された。また、昭和41年に中沢鑅太郎が高久田脩司の手元にあった中井淳の手書き目録を〈らっここれくしょん目録〉としてガリ版刷で刊行したが、目録リスト(307)は 鎌田千代松となっており「台温泉土産屋にて子供の使用せしものを貰ふ」と備考を付している。中沢鑅太郎は刊行目録の註に「(307) 鎌田千代松は誤りであり、千代吉が正しい」と書き、背表紙に1本のこけし写真を掲げて「裏表紙の写真は(307)鎌田千代吉である」と解説を付けた。実際には戸籍表記では千代松が正しく、中井淳が正確に戸籍表記を認識していたことにむしろ驚かされる。〈中井淳集〉の口絵に掲載された群像中の千代治のこけしと〈らっここれくしょん目録〉背表紙写真のこけしは同一のもの、鳴子の形態をした黒くなった古作である。
下掲の右端24.8cmが、〈中井淳集〉および〈らっここれくしょん目録〉で「鎌田千代吉」として写真紹介されたこけしである。
しかしながら、グラフィック社から出版された〈らっこコレクション図譜〉(昭和58年)の解説、および〈企画展「幻想のこけし」〉図録(平成6年)では、下掲左端の胴底に307の番号があり、こちらが「伝鎌田千代吉とされたもの」と従来の説を修正した。
ラッココレクションの二本(右より 24.8cm、22.1cm)
実際にはどちらが台温泉の土産店で中井淳が手に入れたものだったかわからない。目録、および胴底番号はコレクションが中井淳から高久田脩司に移り、中沢鑅太郎が再整理し、三春町歴史民俗資料館に納まるまでにどう混乱が生じたか、あるいは再整理されたかはわからない。遺稿集〈中井淳集〉が編纂されたり、中沢鑅太郎が目録整理で見た段階までは上掲右端が(307)であった可能性もある。
いずれにしても上掲二本の真作者はいずれも鎌田千代松ではないであろう。二本とも鳴子の作者、右端は高橋武蔵古作、左端は岡崎斉古作である可能性が高い。鳴子のものが明治大正期にはかなり岩手県の湯治場に入っていたと思われる。
下掲は米浪庄弌が昭和16年に臺温泉の近くで発見したこけし。発見の経緯は戦前東京こけし会の〈こけし・16〉に発表されている。作者が鎌田千代松というよりは鳴子から入った工人あるいは一ノ関辺の工人の可能性が高いように思われる。ただしフォルムは非常に古風である。
〔18.2cm(明治・大正期)(米浪庄弌旧蔵)〕〈こけし・16〉で紹介されたもの
それでは鎌田千代松のこけしはどのようなものだったろうか。西田峯吉は〈こけし手帖・12〉に「古鳴子と台こけし」という論考を載せて、 花巻近辺の古い工人たちからの聞き書きを整理して千代松のこけしのイメージを次のようにまとめている。「首の回るもので、顔を描き、胴には紅葉を描いた。帯のあるキナキナも作った。用材はさるすべりやこさんばらを用いた。木口は鋸による切り離し。」
またこの論考の中で伊予三島の木原茂像の古いキナキナ(前の所蔵者の蒐集年代から明治末から大正初のものという)について触れている。胴には紅葉が描かれており、西田峯吉のまとめた鎌田千代松のイメージとは近い。
ただ手が十分慣れた作のようには見えず、また製作年代についても疑問は残る。
橋本正明は昭和42年に台温泉を訪れて、千代松のこけしを覚えているという古老、そめや旅館主人と阿部商店老女から千代松のこけしの記憶によるスケッチを入手した。そのスケッチは下掲のようなものであった。
そめや旅館主人の記憶は、五郎城の藤原政五郎の小寸キナキナとの混同があるかもしれない。阿部商店老女の記憶は、西田氏のまとめた聞き書きとも近い。また木原茂蔵のキナキナにも近い。
鎌田千代松は、南部系の古い工人として、また煤孫茂吉の最初の師として重要な工人であるが、その作ったこけしについては依然明確にはなっていない。
なお、下掲は煤孫茂吉作であるが、この帯を付けたキナキナの形式は鎌田千代松よりの伝承という。
〔伝統〕南部系
鈴木豊が鎌田千代吉型と称するこけしを作ったことがある。木原茂蔵が原型と思われる。
鈴木豊〔12.8㎝(平成15年2月)(中根巌)〕鎌田千代吉型 伊勢こけし会頒布
〔参考〕
- 米浪庄弌:旅を想う〈こけし・16)(昭和16年9月)
- 西田峯吉:古鳴子と台こけし〈こけし手帖・12〉(昭和31年12月)
- 橘文策:台のこけし〈大阪教室だより・50〉(昭和44年11月)
- 橋本正明:木人子閑話(18)鎌田千代治は天狗でござる
- 佐々木仁:〈鎌田甚兵衛と八将神万人供養塔〉(平成25年11月8日)
著者は八将神講別当。八将神万人供養塔建立120周年記念に発行された。